第五章 第百九十六話:迂闊
五分は経っていなかっただろう。仁とラインハルトが刃を交えてから。だからまさかそれほど早く決着がついているなどとは誰も思わない。しかし結果として奈々華の忠告は意味を成さなかったことになる。
校舎内を右へ左へ駆け抜けた坂城が、中庭に辿り着いて目にしたのは先の光景だった。地に這いつくばる王者の頭を狂ったように枯れ草の上に叩きつける友達。あちこちに血塗れた精霊の死骸が転がっているその中央に位置した。立ち尽くした。声をかける余地などあろうはずもなく、助力など要ろうはずもなく。ただただ呆然と木偶のように成り行きを見ているだけの坂城。だから背後の人の気配に気付かなかった。
指一つ動かすのも一苦労しそうなラインハルトに代わって、仁が彼の背広のポケットから携帯電話を探し当てる。それは勿論優しさではない。その電話が終われば、ラインハルトの命は朝霧のように立ち消える。折り畳み式のそれを開いて、仁が操作をする。画面に目をやる仁は隙があると言えばあるが、精霊を失い、動くことすらままならないラインハルトはただ黙ってそれを見ているしかなかった。
「ほら。コイツだろう? 早くかけろ」
近藤の遺体が安置されている場所に見当のつかない仁は、秘書らしき人物の番号を呼び出し、携帯電話を地に伏すラインハルトに渡す。
「いいか? ここに明日中にだぞ」
念を押す仁から受け取ったラインハルトは、のろのろした動きで頬に当てる。グレーの機体は仁の漆黒のそれとは似て非なった。
「コーディンか? 私だ……」
「そこまでです!」
突然空を切り裂くような大きな声が響いた。仁のものでもなく、ラインハルトのものではなく、坂城のものでもなかった。
仁が目にしたのは、中門の前で後ろから何者かに後ろから羽交い絞めにされている坂城の姿だった。状況を正確に掴む前に、映ったのは坂城の体の自由を奪っている者の顔だった。
「雷帝から離れてください!」
やはり歳を感じさせない声量。仁はややあってラインハルトの傍から二、三歩さがった。同時にラインハルトは携帯電話をパタンと畳んだ。
「やはり妹さんから片付けておくべきでしたね。無傷ではなかったでしょうに。まさか間に合うとは」
木室の独り言は、前言とは違ってとても小さく、後ろから凄い力で抑え込まれている坂城にしか聞こえなかった。しかし耳に入っても頭には入っていない。
「カエデ…… カエデなのか!」
「貴方に用はありません。大人しく人質をやっていなさい」
木室の冷たい声。坂城の顔は、茫然から僅かな喜色、そして驚きと悲しみが入り乱れた表情へと。
「カエデ! どうしてこんなことをするんだ! カエデ!」
ジタバタと動き回る坂城。最早彼女の目には仁とラインハルトは映っていなくて、ただ拘束を振りほどいて人生の大部分を共に過ごした優しい祖母の顔を見ることだけに心は囚われていた。チッと小さな舌打ち。木室が腰の辺りから引き抜いた短剣が容赦なく坂城の首筋に当てられた。ピタリと止まる坂城。その顔に浮かぶのは恐怖ではなく、驚愕。ポカンと開いた口から何か声にならない音が漏れた。
「人質の交換といきましょう」
おとなしくなった坂城には目もくれず、仁に向けて声を張る。
「……随分と余裕がないな。らしくない」
仁は辛うじて軽口らしきものを返したが、虚勢なのは火を見るより明らかだった。そして胸にあったのはもうこちらに来て幾度繰り返したかもわからない自戒だった。賢くならなければもっと失う。敵の言葉ながら言いえて妙。坂城が中庭に来ていたのは目の端で捉えていたが、注意は完全にラインハルトに集中していた。既になりふり構わないフロイラインが、AMCとの関係が露見することを今更厭う筈もない。即ち木室の助勢は十分に有り得たのだ。
「イレギュラーですからね」
先の独り言にも通じる。彼女の描いた筋書きだと、ミルフィリアを攫った後、仁との対峙という形だったようだ。もう一つ、ラインハルトがこうもあっさり負けるというのも誤算だったのかもしれない。
「さあ、もう少し離れて。また友達を失いたくはないでしょう?」
仁は言われるがまま。ラインハルトとの距離は広がっていき、木室が良いと言った頃には両者の間に数十メートル離れていた。そのまま坂城を引きずって、ラインハルトの傍に入れ替わる。
「早く坂城を放せ」
その言葉を合図に、木室は坂城の背をドンと押して解放する。二、三歩つんのめるようにして坂城が仁の方へ。それと同時に木室とラインハルトの周囲に竜巻のような暴風が起こる。
それがやむと、二人の姿はもうどこにもなかった。