第五章 第百九十一話:戦友
丸太鬼の体は遙か向こうでその活動を止め、ゆっくりと膝が地につく。そのままうつ伏せに倒れこむ。地震のような揺れが、舗装の剥げた大地に伝わった。積雪に見る見る赤が染み込む。膝、腹、首。
交錯の瞬間、仁は地面を大きく蹴り、限界まで跳躍した。体勢を心持ち低く保っていた丸太鬼の首の辺りに刀のレンジを持っていくことが出来た。ほとんど捨て身だった。体がそこまで浮かび上がらなければ即死。浮かび上がったところで、胴体が丸太鬼と接触してしまったら相討ち。つまり相手と接触する寸でで上に逃げ、その途上、丸太鬼の首と仁の腕が直線に並ぶ一瞬に斬撃をあわせ、その後速度を失わず衝突を防ぐ。針の穴を通すような正確無比な所業を、仁はやってのけた。いや、実は完璧ではない。恐らく彼が自己採点をつけるとしたら百点満点中八十点といったところ。
仁は静を鞘に納めて、ほふく前進で坂を下っている。両足を折った。つまり全身を逃がしきれなかった。激痛が走る両足を引き摺り、腕の力だけで体を動かす。汗と熱気で火照った肘が、雪に食い込みその熱を失っていく。それが丸太鬼の、村雲の体温と同様であると知っていて、仁はあらん限りの速度で下る。
「無様ですな、主」
丸太鬼は頬を雪につけ、生気の失われた顔で語りかける。隣にあるのは、自身のものより一回りも二回りも小さな顔。鬼の尋常ならざる生命力が、彼の最期を仁に看取らせる。
「そっちも同じようなもんだろう?」
グシュッと嫌な音を立てて、首から纏まった血が流れ出る。目に怒気はなく、穏やかだった。仁がいつも語らう時に、頭の中で思い描く彼の表情と似ていた。仁は声にならない音を唇の隙間から漏らした。荒れた呼吸のせいではなかった。
「……」
「闘わなければいけなかったのか」
「我の中の主を殺したくない気持ちより、人を憎む気持ちの方が強くなった」
仁が村雲と奈々華を秤にかけ、後者に傾けたのと同じように、彼もまた仁と失われた仲間の重さを量った。
「……」
「……」
鬼の首から流れる血は勢いを失わず、その貯蔵が無限であるかのような錯覚さえ覚えさせる。だけど、仁が必死に表情を殺しているのは、それが有限であると知っているから。
「もし同じ状況が百回あったとしたら、俺は百度今と同じ選択をしている」
「……知っております」
「お前が精霊だからじゃなく、お前より奈々華が大切だからだ」
「……知っております」
「俺に博愛は無理だ。そんなに強くない。裏切らない、心の底から愛することが出来る存在が必要だ」
「……知っております」
「俺には…… 俺には……」
仁の無表情は崩れた。どちらが死の淵に立っているのかわからないほど、二人の表情はあべこべだった。苦痛に耐えるかのように目を瞑り、湿った声を閉ざした仁。口元に笑みすら浮かべ、人すらも遂に赦したかのような声音の村雲。
「我は博愛主義ではない。あんな絵に描いた餅を追い求めるほど愚かではない。友を殺す種族を決して赦すことは出来ない。我が仏の顔を見せるのは、我に仁を持つ者だけ」
「……それでも、それでも人と分かりあおうとしたんだろう?」
「そう。そしてそれは失敗に終わった」
人間側の一方的な不遜によって。歩み寄り差し出した手に乗せられたのは、仲間達の遺骸だけ。
綻ぶものなのかもしれない。どんなにしても分かり合えない相手はいるし、友の中にも優劣はつく。付き合いが長く気心が知れる者、付き合いが浅く会話だけは成り立つ者。画一に扱うことは、前者に応えきれていない。不信や寂しささえ与えかねない。誰にでも優しいということは、誰も愛していないと捉えられやしないか。
「主が我を信じていなかったわけでもなく、好いていなかったわけでもないことは承知している」
「やめてくれ…… 俺にそんな言葉をかけてもらう資格なんてない」
「相手が悪かった。きっと世界中の誰でも、妹殿にはかなわぬ」
「やめてくれ……」
仁の唇から血が流れ、雪の上に滴る。村雲が流すものに比べれば雀の涙ほどの量だった。
「我は主の精霊になれて後悔はありませぬ。楽しい時間を過ごせました……」
言葉を考えているわけでもなく、間を取ったわけでもなく、言葉を切らざるを得なかった。村雲は声帯を震わす力すら搾り出すのが難しくなっているのだ。
「……僭越ながら弟のように感じておりました」
「……」
「静殿。嫌な役を押し付けてしまいました」
「気にしないで欲しい…… っす」
「賜った鞭撻、地獄でも忘れはしませぬ」
「気にしないで…… 欲しいっす」
ヒューヒューと村雲の歯の間から音が出る。
「主……」
「何だ?」
仁はほとんど叫ぶようだった。
「触れていてくれませぬか?」
もうどこを見ているのか、大きな瞳は焦点が定まらない。仁は黙って村雲の頬に手を当てた。
しばらくして村雲の目は瞬きをしなくなった。