第五章 第百九十話:咆哮
「そろそろか」
仁の呟きは、目まぐるしい攻防の垣間に。恐らくは考えていたことがそのまま口に出ただけで、彼自身は声になっていることすら自覚がないのだろう。仁と丸太鬼が交戦を始めて一時間以上経過していた。一人と一体は体力まで人外。息こそ荒いものの、体の動きに鈍化は一向に見えない。
「だけど傷は違う」
攻撃に向かう丸太鬼の膝が一瞬落ちる。仁は開戦以来、終始丸太鬼の右足に刃を当て続けた。その一撃づつは、硬い丸太鬼の皮膚に小さな傷をつけるくらいのことしか出来ないが、幾重もの攻防の果てに、幾重にも重ねると話が違ってくる。精確に、最初の傷をなぞるように、ほぼ狂いなく。それは皮を裂き、肉に届き、肉を傷つけ、裂き、骨に近い部分まで届いていた。そんな好機を逃す仁でもない。すぐさま風のような速さで駆け、開いた下腹部に刀を走らせる。小さな傷は、また積み重ねの一歩目。刀を振りぬくともう一撃。今度は振り上げるように。右側の側腹部に回りこまれている丸太鬼が取り得る行動はほぼ二つに絞られる。右足の蹴り。右足の踏ん張りが利かない状態で左の蹴りは考えにくい。もう一つは拳の振り下ろし。丸太鬼は後者で来た。しかし体勢を立て直すことはせず、散漫で力のこもらぬ拳。仁は当然その速度も威力も落ちた攻撃を楽々かわす。バックステップ二つ。十分に距離を取ってから目を瞠る。丸太鬼は両の腕を仁が居た辺りにブンブンと振り回している。型も何もなく、ただ追い詰められた獣。
「奈々華! ガードレールを飛び降りろ! こっちに来い!」
位置関係で言えば奈々華は今丸太鬼がいる辺りの少し上。即座に兄の忠告どおり、ガードレールを飛び越え、木立の間を抜け、坂を下ってくる。丸太鬼の拳は未だ狂ったよう。暫くして仁が傍に居ないことだけは何とか理解したのか、ゆっくりと立ち上がる。ポタポタと右の膝下から血が落ち、積もり始めた雪の上に赤が解け入る。仁は油断なく全身を見つめていた。腹の辺りに力が集まる。
「やべえ! 奈々、耳を塞げ!」
仁の傍までやって来たばかりの奈々華は呆ける間もなく、両耳に手の平を当てる。遅れて仁も同じように。次の瞬間、丸太鬼の桁外れの肺活量が成せる雄叫び。
「オオオオオオオオ!!」
耳を塞いでなお、二人には最大音量のスピーカーを使って耳元で叫ばれているようだった。奈々華は目を瞑っていて見えなかった。仁が唇を強く噛み、眉をハの字に曲げ、世の不条理に初めて触れ、泣き出しそうな子供のように顔を歪めているのを。
丸太鬼の全身に恐ろしい力が行き渡る。当然傷ついた右足からは大量の血液が垂れ流される。まるで沸騰しているかのように、雪を大きく溶かす。白目すら充血して赤い。流れる涙に血が混じっているように見えるのは、体色のせいではないはずだ。憎くて憎くて、悔しくて不甲斐なくて、理性など吹き飛んで……
「奈々ちゃん。森の中を走って。ここから離れて」
「そんな……」
何が出来るわけでもないのはわかっていても、奈々華にとって兄の安否も定かでないまま、自身だけが安全に身を置くことがどれほど苦痛であるか、仁にも十分にわかっている。わかっていてなお、奈々華の安全を思う。目だけガードレール下の妹に動かし、「頼む」と。奈々華は俯いて肩を震わせる。
「お願い…… 無事で帰って来て」
それだけを振り絞り、奈々華は仁に背を向けて走り出す。その背を見届け、仁は再び丸太鬼に視線を戻す。
「無茶言ってくれる」
丸太鬼が動く。死力を注ぎ込んだ両足が回転する。先程の突進とは比べ物にもならない速度。一歩一歩が魂の足跡。両手を広げ、道の端から端まで完全に塞いでいる。空気抵抗を受けてなお恐ろしい速度。回避は難しい。ガードレール下に逃げ込む余裕などない。仁は静を、彼の友を正面に構え神経を研ぎ澄ました。