第五章 第百八十八話:変わるモノ、変わらないモノ
霧。黒い霧。思わず刀から手を放した仁の瞳には、地上から立ち昇る煙のようにも見えた。頭の中に巡る諦念。彼は本能的に理解していた。先程のおぞましい詠唱が静の言っていた条件というもので、これから村雲は丸太鬼へと戻る。人形達がまるで最初から気体だったかのように霧散する。不快な笑い声を残しながら。奈々華が後ろで尻餅をつく気配があった。彼以外の人間にはその黒い霧は闇の胎動。
まるで意志をもったような黒い霧が、徐々に晴れていく。次第に見えてくるのは鮮血を塗りたくったような巨大な足。隆々と盛り上がった体。霧が立ち消える。契約の時に見たよりももっと、もっと恐ろしくて悲しい瞳。わかり合うことは出来ない。数ヶ月も共に闘ってきた相棒である仁が一目でそう感じてしまった。完全にその姿を晒した丸太鬼は言葉を持たない獣のように一つ、大きな咆哮を上げた。それは確かにおぞましく、現に近くのガードレールすらビリビリと震えている。だけど仁にはそれが泣き叫んでいるように感じられた。
「……もう戻せないのか?」
新たに引き抜いた静に尋ねた声は掠れていた。
「無理だ」
声音は冷たく聞こえた。仁の逡巡を、選択の間を、理解できぬ静でもなかった。仁は確かに選んだ。二つの命を天秤にかけ、一つを選んだ。
「……そうか」
何とかそれだけを呟いて、仁は刀を構えた。
膂力は簡単に防ぎきれるものではなく、体重の乗った一撃は刀を水平に構えた俺ごと、アスファルトに押し潰さんとしていた。仰ぎ見ると足の裏、その向こうに憎悪に揺れる瞳が見える。身に詰まる。体の前に心が潰れてしまうんじゃないか。そんな錯覚さえ覚えていた。
他人事でもないのだ。信じ、愛した者を奪われた彼は。刀を振るうことさえ憚られた。裁かれるはむしろ人間の方だ。彼が何をした?
腕に力を込める。心というのは体と連動している。きっとこの足には彼の狂おしい怒りが乗っているんだ。だけどこちらも負けるわけにはいかないのだ。後ろには俺の名を叫ぶ声がある。俺の無事だけを切に祈る存在がある。守ると決めた大切な家族がいる。近藤の命、祐の命、沢山の命から選び取ってきた失ってはならないもの。そんな権利が俺にないことはわかっている。全てが終わり、断罪の時があるのなら、煉獄にでも畜生道にでも墜ちてやる。だけどこの子だけは……
可愛いんだ。愛おしいんだ。俺の我が侭なんだ。
口の中に血の味がする。奥歯を強く噛みすぎたのかもしれない。唇を噛んでいたのかもしれない。不意に体にかかっていた重みが消える。丸太鬼の体を押し返し、足が宙に浮いたのだろう。即座に駆け、左足の落下点から抜ける。そのまま瞳に映るのは赤いもう一つの足。あっという間にそれが刀の射程範囲に入った。向こう脛を斬りつける。浅い。わずかに血が出たようだが、体色を考慮に入れても出血は多くない。丸太鬼は蚊に刺された程度の痛みしか感じていないはずだ。
「上だ!」
静の声が飛ぶ。仰ぎ見ると、妙にゆっくり丸太鬼の丸太よりも太い腕が振り下ろされてくるのが見えた。横っ飛びでかわす。すぐさま道路に亀裂が入る。丸太鬼は体重をかけた左腕が地面にめりこんで、体も前屈みになっている。これで隙が出来たと喜べるのは今までのつまらない下級精霊。初動すら見えない速さで地面についた左腕が横薙ぎに振られる。避けることなど出来そうもない。静を再び水平に構え、体の前に押し出す。直後に両腕に今まで感じたこともないほどの衝撃。目の前が暗転し、胸に痛みを覚えると同時に体が浮き上がる。腕だけでは止めきれずに、胸に刀の背が食い込んでいるのだ。妙に冷静な頭。今は吹き飛ばされて後方に勢いよく移動している。刀の先に当てていた右手を自由にし、受身へ。すぐさま背中に硬いものが当たる感触。体の横に両手の平をついて、後方宙返りの要領で体を回す。足を地面につけるが、勢いがつきすぎていて尻が落ちそうになって強く踏みしめる。前を見ると悠然とこちらに歩を進める丸太鬼。すぐさま距離を詰めて追撃にも出れたろうに……
「はは、コイツは強えな」
頬が緩んでいるのがわかる。そっか、左目が開きかけてるんだ。でもそれじゃない。こんなに強いヤツと共に闘ってきたのかと思うと、状況も弁えず、誇らしい気持ちさえする。丸太鬼は依然歩速も上げず、王者のような余裕を見せている。奈々華の横を平然と通り過ぎる。焦りすら生まれなかった。なぜなら……
「主従のよしみだ。主を殺すまでは妹には手は出さない」
コイツならこう言ってくれると心のどこかが確信していた。妙に義理堅い本質は、きっと怒りに囚われても、丸太鬼になろうと変わらない。
「だから、本気でかかって来い。我が主よ!」