第五章 第百八十七話:別離の選択
仁の胸には様々な感情が渦巻いている。木室の裏切りを、改めて会話を通して痛感したことに対するやりきれなさ。それと付随するどす黒い感情。奈々華の安全を守らなくてはいけないという重責の中、終わりの見えない不慣れな戦いに身を置く緊張。それでも仁はよく戦っている。それは偏に守りたい者が後ろにいるから。倒れるわけにはいかないから。奈々華は気を利かせて、増援の電話をかけている。ミルフィリアと坂城の手を借りられれば、戦局は一気に優勢に傾く。
「くそ! キリがねえ」
未だ底は見えない。アスファルト一面、ガードレールを覆い、更に奥からも地面一杯に黒の大群。アリの行列の濃度をより密にして、その数を増やしたような景色。既に仁の足元には数百を越す敵の残骸が転がっているが、明らかに攻め入ってくる数の方が多い。敵の攻撃方法はわからないが、敵はとにかく体によじ登ろうとしてくる。そこから恐らく攻撃に入るのだろうと予測し、仁はもとより奈々華にも一匹も這い登らせるようなことはしていない。つまり弱い。個々の力は全くと言っていいほど脅威にはならない。ただ脅威は、その不気味な風体をした尽きることのない手勢。未知の昆虫を撃退した先日に似ているが、攻撃方法が定かではない点、より性質が悪い。
戦局は一瞬にして変わった。仁は呆気に取られて刀を持て余した。人形達がピタリと、電池が切れたように動かなくなったのだ。
「お兄ちゃん! 大変。学園長さんたちが!」
奈々華の緊迫した声。仁は振り返ろうとして、人形達に視線を戻さざるを得なかった。それらが一斉につんざく様な声で笑い始めた。鉄が軋む音にも似ていて、奈々華は思わず耳を塞ぐ。状況の掴めない仁は再び油断なく刀を構えなおす。
「キキキキキキ」
「キキキキキキ」
「何が起きてるんだ?」
仁の呟くような声量は、軽く千を越す人形達の笑い声に完全に消される。人形が一際大きな金切り声を上げる。
「整った。整った。整った。整った!」
今度は同じ言葉を繰り返す。輪唱ではなく全てがほぼ同時に。
「お前の名前は丸太鬼。丸太鬼。丸太鬼。丸太鬼」
四度繰り返す前に、腰に下がったままの静が聞いたこともない大声を上げる。
「まずい! こいつ等<闇の胎動を促す者>だ。急いで本体を見つけろ!」
仁は状況が掴み切れていないが、村雲の本当の名を知っている得体の知れない敵を倒すことに異論などない。緊急性も手伝って、仁の頭はすぐに湧き上がる混乱も疑問も一旦隅に追いやり、必要な情報だけを欲した。
「どうやって見つけるんだ?」
「一番力の強いヤツだ。何とか探し出せ!」
丸太鬼、丸太鬼…… と呪文のように人形達は囃し立てる。仁はそれが物理的な力の強さではなく、魔力の偏在から知るものだとすぐに察する。ギリッと奥歯が鳴った。きっと坂城やミルフィリアが居れば簡単にいくのだろうが…… ふと仁は弾かれたように村雲を見やる。当の村雲は何も話さなければ、顔も見えない。戦闘中に無駄口を叩くような精霊でもないので、それで普通なのだが、今だけ仁は村雲に語りかける。
「おい、大丈夫か!」
名を知り、とある儀式を経て、過去の記憶を取り戻すという話。その儀式とやらがこの<闇の胎動を促す者>と関係しているのなら……
「……主?」
「マズイ。乖離が始まっている」
静の口調にも先程からいつもの余裕はない。それが切迫した事態を示していた。
「乖離って何だ!」
仁は闇雲に刀を振るう。次々と人形の破片が宙を舞うが、一向に囀りも進軍も止まない。本体というくらいなのだから、恐らく群れの一番奥、少なくとも最前線には居ないはずだ。ついっと足を踏み出しかけて、自身の後ろに居る存在を思い出す。取捨選択。そんな言葉が妙に重たく、仁の脳裏を闇のように侵食した。
浮き上がりかけた足は…… 踏み出されることなく、そのまま地についた。
「文字通りだ。精霊の心が魔術師から乖離する現象」
普通は起こり得ない。いつだって裏切るのは人間の方だから。人形達の高笑いが終わり、幾つかの人形が動かなくなる。ブツブツと何かを呟いている。次第にその声が大きくなり、全体に波及していく。間もなく全ての人形が黒い霧のようなものを体から滲ませる。
「丸太鬼。乳飲み子を食い殺せ。
丸太鬼。希望の若者を嬲り殺せ。
丸太鬼。守るべき者の前で守り手を壊し尽くせ。
丸太鬼。安らかなる死を待つ老躯を踏み潰せ。
生きたまま腕をむしれ。生きたまま足を砕け。生きたまま腸を引きずり出せ。其は同胞が受けた恥辱。其は同胞が受けた苦しみ。其は同胞が受けた憎しみ。返せ。返せ。返せ!」
おぞましい詠唱。
「いけない! 早く!」
静はあらん限りに声を上げる。しかし仁は半ば自失したような目で、手に持った仲間を見つめていた。
「主? 主? 人間? 人間。人間。人間」
村雲の刀身から先に見た人形達のものとは比べ物にならないくらいに、濃く深い闇が広がっていった。