第五章 第百八十五話:言葉
「多分…… 君も弱いんだね」
仁がふと呟いた。耳鳴りの錯覚さえ覚える冬の寒風、降り立ったばかりの雪に靴を踏み込む音。掻き消されそうだった。
「まだ俺が必要なのかな? まだまだずっとついていないと寂しいのかな?」
それは自問のようでもあった。ギュッギュと靴底に雪が踏みしめられる音は悲鳴のようにも聞こえる。粉雪にも近かった雪はいまや一粒一粒がはっきりと視認できる大きさになっている。意志を持つかのように舞うそれらは生き物のようにも見える。傘を買っておけばよかったね、と仁の頭の一部がつまらないことを考えた。
「子供扱いみたいで少しイヤだけど……」
本当は力強く頷いて、思いっきり仁の胸に飛び込みたいのだろう。だけど彼女には仁の言葉が軽口の類にも聞こえた。判断しかねた。隔絶の弊害がまた出てきたようで、膿のように厭んだ。だけど振り向いた仁の顔を見て、全てが氷解する。唇を噛みしめ、世界で一番大切な家族を悲しませたことを何よりも悔いていた。
「もしそうなら……」
「……」
奈々華の胸は高鳴っていた。立ち止まった仁に、ゆっくりと、だけど確実に奈々華が近づいていく。二人の間に隔たっていた距離が限りなくゼロになる。手を伸ばせば触れ合う。笑いかければ笑い返してくる。言葉を紡げば絶対に届く。
「もしそうなら…… お前が俺を要らなくなるまで、お前の傍にいるよ。お前が望むだけ」
「お兄ちゃん」
奈々華の瞳に輝きが宿る。それは潤い。すっと静かに零れ落ちる。頬を伝い、顎を伝い、上着の上に落ちる。小さく弾けた水滴を合図に、奈々華は仁の胸に飛び込んだ。仁は雪に足を取られそうになるが、二、三歩たたらを踏んでとどまる。いつもはすすり泣くようにグスグスと鼻を鳴らすのに、今日は、今日だけは喉を枯らすような大きな声を上げ、大粒の涙を枯れることなく流す。張り詰めた冬の空気に、三年間の狂いそうな空白を乗せた慟哭が響き渡る。
仁はゆっくりと奈々華の前髪や額を撫でる。これからは絶対に傷つけないように。
「それが家族なんだ」
「……馬鹿。私の気持ちなんて少しもわかってないクセに……」
嗚咽混じりの声に、仁は顔を曇らせるのではなく、一層優しい笑みを浮かべる。力ない拳が仁の胸を打つ。
「ああ。馬鹿だ。勝手に強いと思い込んで、勝手に大人になったと思い込んで、勝手にもう俺の手は必要ないと思い込んで」
「なのに…… なのに、私の一番欲しい言葉を最後にくれる」
奈々華の拳が力なく仁の胸におさまる。古い思い出を引っ張り出したせいで、奈々華の頭にはまた懐かしい記憶が蘇っていた。最初に奈々華と仁が出会ったとき、仁は自己紹介の段で自分の名前をあまり好いていないと明かした。母がつけた名の由来を、父から聞かされたそうだ。こう言った。「人に対していっつも本気で優しくしないといけないんだって。面倒くさいよ」
ものぐさな所も優しい所も何一つ変わっていない。
拳を解き、きつくきつく仁を抱き締める。仁がくれた家族としての思いに、それ以上の想いを重ねてしまうと、二人の間に僅かな隙間があることすら疎ましいのだ。仁もいつもと違って苦しいとも痛いとも言わず、静かに抱きとめている。顔には奈々華の大好きな微苦笑。暫くの間、二人の間に会話はなく、ただ黙って心を通わせるように抱き合っていた。
そして破壊はやって来た。




