第五章 第百八十三話:二つの杞憂
男子トイレは比較的回転がいいものだが、女子トイレはそうはいかない。日曜日の昼間、精霊園はまた一段と人が増え、トイレまでが混雑する有様。仁はトイレから数メートル離れた場所で所在無く妹の帰りを待っていた。トイレの前にはコンクリの通路、それを挟んで芝生を敷いたなだらかな丘があり、その向こうには少し体の大きな精霊を入れた鉄格子の檻が並ぶ。そこは既に回っていた。等間隔を開けて檻が陳列されていて、檻の手前には各精霊の生態などを書いたプレートが立っている。
「お前までムスッとすることはないだろ?」
腰に手を当て、その手は刀の柄を押さえ込むようにしている。さながらスキンシップと言ったところ。
「我は別に……」
仁は最初、しばらく部屋で留守番をさせていたから拗ねているのかとも思った。しかし思い直した。もし彼が前世の性根を朧ながら受け継いでいるのだとしたら、この場所が不快なのかもしれないと。精霊を見世物にして利益を上げる施設。その底流にあるのは、やはり精霊蔑視の考え方ではないか。
「だったら何でそんなに声が重いんだよ」
「……」
「ひょっとして最近構ってなかったから拗ねてるのか?」
「馬鹿な!」
少し弾んだ声音。仁は目だけ周囲に配って、怪しまれていないことを確認して、再び腰に視線を落とす。芝の丘陵の手前には同じように待たされる男性陣が数人居たが、つまらなさそうに携帯電話をいじったりしていて誰も他の人間を気に留めていなかった。
「我が憂いているのは……」
「憂いているのは?」
また一人、女子トイレから人が出てくる。仁から一メートルほど離れて立っていた青年が「遅いよ」と声をかけて二人連れ立って去っていく。
「主と奈々華殿」
急に仁の顔が険しくなる。鼻から溜息を漏らし、つまらなさそうに顔を上げた。それは仁自身が最も懸案していて、答えは出ていて、出ていなくて、他人から聞かされるとうんざりする類のもの。
「どうして素直に接してやらない?」
「……」
「このままではまた離れ離れになってしまうのではないのか?」
「……」
仁は閉塞感を通り越して村雲のことを考えていた。
「確かにお節介のキライはあったけどね」
「何と?」
静の目はやはり正しい。精霊への愛着を揺り戻すのではないかという仁の懸念は杞憂に終わる。仲間だけを大切にするという気質に今は変わっていて、それはやはり静の言葉通り仁と似通ったもので、互いに仲間と認識している。
「なあ、覚えてるか?」
「さっきから話が飛んでばかりですぞ?」
「いいから聞けよ」
仁の頬は少し綻んでいた。
「いつかもこういうことあったろ?」
「いつかとは……」
「ほら、まだ俺と奈々華がわだかまっていた頃」
村雲はまだ合点がいかない。勘が悪いな、と仁は悪戯っぽく笑って続ける。
「今みたいに奈々華が出てくるのを待ちながら、お前から奈々華への接し方への忠言を賜ったろう?」
ああ、と村雲。少し笑みを含んでいる。人は何か忘れていたことを思い出すと、同時に自然と笑む。それは思い出の共有する相手のことを思い、その思い出を懐かしみ、どうして忘れていたんだろうと可笑しくなるから。それは下らなくて瑣末なことほど顕著だ。人と鬼は違うと静は言うけれど、彼らには仲間という括りだけで十分なのかもしれない。
仁も村雲も微笑をたたえていると、女子トイレの出入り口から待ち人たる少女が出てくる。白いファー付きのフードのダウンコート。彼女もまた彼らの仲間だった。