第五章 第百八十話:兄の迷走
学園の共同浴場は、午後八時から十時の間に最も混雑し、それを過ぎて以降は極端に利用者が少なくなる。特にテストを目前に控えた真面目な生徒達は規則正しく行動している。日付が変わる頃にそこを訪れた仁が他人の前に裸を晒す事態はなかった。仁がこのような時間にここを利用しているのには二つの理由がある。一つは彼が元来人の多い場所は好かないということ。もう一つは彼の日頃の素行。自分がどういう目で見られているのか正しく理解している仁は、自分と遭遇した相手もまた気を遣ったり、不必要に怯えたり気負ったりするのが嫌なのだ。利他というより、そういう空気を感じるのは本人にとっても面白くないもので、やはりどちらの理由も利己的なものと仁は自分で分析している。
「またコソコソすか?」
静が同行を申し出た。湿気は我々の容れ物に大敵だと風呂場についてくることなど今までなかった。
「触らぬ神に祟りなしってね」
がらんと静まり返った脱衣所はやけに二人の声がエコーする。誰に遠慮する必要もないのに、仁の声は心持ち小さかった。
「……言葉の裏を読んでくれないと困るんすけどね」
わざわざこんな場所にまでついて来たのは、奈々華の不機嫌に当てられる仁を気遣う目的ではない。
「村雲のことか?」
「ええ。どうしてアッシを連れて行ったんですか? 普段は使い慣れた彼を同伴させているでしょう?」
例の呪翅討伐の件。仁が相棒に選んだのは静だった。
「彼には普段通り接していないとまずいでしょう?」
「二十やそこらのガキに随分高望みをなさる」
絶対にボロを出してはいけないとき、人はその対象と積極的に関わるという選択肢を最後尾に回す。それは年齢のせいというより人の性に近いが、仁の自虐には自身の態度に不自然があることを自覚している裏返しかもしれない。
「……確かに長く生きていると他者を欺く術だけが達者になってしまうのかも知れないっすね」
静は、仁の目から見ても村雲に対する態度に何ら変化をきたしていない。それもそのはず、仁が気付く前から彼は村雲の真の名を知っていたのだから。
「口には出していないですけどね、彼、寂しがってるっすよ?」
「そうなのか?」
「ええ。彼にとっては刀鬼として初めての主人。それにそれだけでもなく、アンタのことは気に入っています」
ひねくれているわけではないが、達観している静が手放しで気がいいと褒めた村雲。鬼にとっての五十年が一瞬だと言うのなら、彼はいわば無垢の赤子に近いのかもしれない。仁はその信頼と好意を一身に受けているのだ。赤子を授かる親には、その天使を寂しがらせてはいけないという義務があるのだ。
「……まあいいでしょう。これからの意識改善に期待ってとこっすね」
仁は話しの終わりを察し、上半身をむき出しにする。赤子のそれとは違い、ほとんど無駄な肉のない引き締まった成人の体。
「ああ、それと。冒頭の話に戻りますが…… あの子もまた寂しがっています。モテる男は辛いっすね?」
からかうような内容だが、口調はいつもの通り。つまり耳を傾けるに値する話。
「何となくわかる」
「だったら、まやかしではないのなら、抱き締めてやりなさい。あの子の傍にいつまでも居てあげなさい。それがあの子の望み」
ついに下半身まで服を脱いだ仁は、脱衣カゴの中に下着を放り込む。先客の静は仁のパンツを被ることになる。代わりにタオルを取り出して肩にかけ、「へーい」と呑気な声を出して浴場の引き戸を開ける。そのまま湯煙の中へと消えていく仁に、続く静の声は届かなかった。
「ちゃんとわかってるんすか? いつまでもと言った意味を」