第五章 第百七十七話:押しの功罪
「中々ままならないね」
シャルロットの気遣うような声音に、奈々華は力ない笑みを返した。仁がいつも抱く卵を胸に。卵はまだ孵らない。いつもの場所を奪われているシャルロットは奈々華の隣、コタツに下半身だけ潜らせている。
「しょうがないよ。はぐれ精霊と闘うんだもん。私が行ったら邪魔になる」
へえ、と目を細めるシャルロット。卵をテーブルの上に置くと、猫達の反応は素早かった。シャルロットは今しがた出来た空席に。アイシアは、最近は卵で遊ぶことに執心している、テーブルの上に行儀も何もなく飛び乗り、今しがた解放された遊び相手とじゃれ始める。
「今日はいつになく聞きわけがいいじゃないか?」
聞きわけが良くて、出発前に散々渋ったのだから仁の苦労も推し量るに難い。奈々華はフフフと含み笑い。
「だってお兄ちゃんの方から遊びに行こうなんて……」
「まああのものぐさがね」
「今回はそれで許してやらないこともないかな、なんて」
わざと偉ぶった口調でそう言う。
「女二人と行っても?」
ニタリと意地悪く笑うシャルロットは奈々華のからかい方を熟知していた。途端に言葉に詰まる奈々華を見てますます笑みを濃くした。起き上がりコボシのように叩いても戻ってくる卵に、飽きもせずパンチを繰り出すアイシアが鋭く敵意をこめた鳴き声を上げる。
「そこは…… お兄ちゃんを信じるしかない…… かな」
「信じるも何も…… アイツからすれば女を口説こうが何しようがアンタに遠慮する謂れはないんじゃない?」
「それは」
「いくら妹が一人ぼっちになるからって、それで自分の人生までツンドラ状態にする必要もないだろう? お前も早く彼氏を作れよ、で終わりさ」
「うう」
「古今東西、惚れた方が押すのは当然さね」
からかったかと思えば、それは奈々華の背を押す言葉を導く枕詞。この精霊のそういうところを奈々華もよく気に入っているようだった。
「うん…… そうだよね。お兄ちゃんの腕ならそろそろ終わる頃だし…… 迎えに行こう!」
問題は坂城のほうだった。位置関係で敵の群れにミルフィリアよりも近かった彼女は頬や顎、即ち顔の各部にも傷を負っていた。先程のミルフィリアよりも赤い顔で俯いたままヴェーゼを待つ姿に、仁まで何やら気恥ずかしくなる。
「まずい方法を思いついちまったな」
ミルフィリアの推論が正しければ要するに気の持ちよう。蛇蝎に見るに、人が忌むものには大抵毒があるというイメージと、呪いとを安直に混同したがために吸い出すという奇行を考え付いたが、よく考えれば衛生面から言っても指で血を摘み出すだとか水で洗い流すなどといった策の方がスマートだ。
「……わ、私は別に構わない」
「構わないって言ってもなあ」
流れる血は擬態するよう。上気した頬は朱を通り越して真紅と言ってもいい。顔に意識が集まるほど、更に赤くなり手がつけられなくなっていく。ミルフィリアが二人の傍まで近づいてくる。すっかりいつも通りの澄ました顔は次に吐くであろう言葉に手心が加えられないことを容易に推察させる。
「まだ済んでなかったのですか? 遊庵は構わないと言っているのですからさっさとやっちゃいなさいな」
「いやでもなあ。ほっぺただぞ?」
「女がいいと言っているのに、頬に口づけも出来ないんですか? へたれ」
口づけという単語に坂城の顔は本日最高純度の赤を迎える。へたれ呼ばわりされた仁も直情的に不快を滲ませる。「やってやるよ」と強引に坂城の肩に手を置き、顔と顔を近づける。坂城が声にならない声を上げたが、構わず唇を薄く開く。
「それでいいのです。遊庵を憎からず思っているのなら彼女を受け容れてあげなさい」
徐々に顔と顔の距離がゼロへ。触れる。吸い出す。坂城はマネキン人形のように直立して、それとの相違は目がきつく閉じられていることか、ただ仁の息遣いを、唇を、肌で感じている。
第三者の声は突然、夜の帳よりも暗くて、冬の日暮れに負けず冷たく。
「何やってるの? お兄ちゃん」