第五章 第百七十三話:謝意ボーイ
携帯電話をパタンと閉じると、仁はそれを乱暴にベッドへ放り投げた。そしてそのまま何の気なしに、夕食を終えて食器を洗う奈々華の後姿を見る。やはり彼女お気に入りの熊の刺繍が入ったエプロンをつけて鼻歌を歌いながら皿を撫で回している。彼女が動物の中で特に熊を気に入っているのは、とある日、まだ奈々華がランドセルを背負っていた頃、仁が彼女のシャツにプリントされた熊を見て「可愛い」と褒めたことに起因する。スカートの下からは少し細めの足が伸びている。
「どうしたの?」
奈々華が視線に気付いたのか、振り返る。
「まだ食べ足りないの?」
夕食は十分な量があった。はは、と小さく笑ってから仁は否定を口にする。
「そうじゃないよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
今度はにこりと笑う。その優しい笑顔に奈々華の心が揺れることも知らない。慌てて正面を向きなおした奈々華は皿洗いに戻る。しばらくはキュッキュと小気味のスポンジと皿が擦れあう音が部屋に響くだけだった。
「ねえ……」
「うん?」
一分ほどそんな時間が流れて、仁がまた声をかける。奈々華は今度は振り向かずに声だけ返す。
「どっか行きたいところはない?」
奈々華の反応は早かった。ガチャンとシンクに皿が落ちる音。割れてやしないだろうかと仁の視線は一瞬奈々華の体を通り越して洗い場の方に向いた。
「どっか連れてってくれるの?」
「あ、ああ」
「本当?」
「うん。思えば家族サービスをずっとしてなかったからね。まあこっちじゃ遊び場も知らないし車もないけどね」
そういって照れ隠しのように苦笑する。
「ついでにお前がよければの……」
「行く! 行く行く。やったあ、久しぶりのデートだ」
手を拭くことも忘れて、水飛沫を撒き散らしながら仁へと駆け寄る。その動きが機敏で、仁は気圧されて半歩コタツの中を動く。その隙間に奈々華が当然のようにおさまる。
「デートって……」
「どこ行こうか? 何着て行こうかな。タウン雑誌ってこっちにもあるよね。コンビニで買ってこないとね! ああ、あとグルメ関係も。ご飯も美味しいところで食べたいよね」
「落ち着いてくれ」
そう言いながらも、仁の口の端も持ち上がっていた。遊びに行こうと誘っただけで、飼い主を見つけた子犬のようにはしゃぎまわる妹はやはり彼からしても可愛いのだろう。
日時は週末、日曜日の午前十時。回る場所は奈々華がインターネットなどで調べておく、仁は一日費やすほど多くの場所を回る気はなかったのだが、とのこと。ちなみに翌日は中谷精霊魔術学園唯一の考査試験が行われるのだが、二人の話し合いにおいてコンマの一秒も言及されることはなかった。
「アンタにしては殊勝じゃないか」
からかうような口調。アイシアと卵を格闘させながら、コタツの中で温もっている仁の傍までシャルロットがやってくる。バックグラウンドミュージックは奈々華の先程よりも大きな鼻歌。仁が昔薦めたノリのいいユーロビートだ。
「ああ、まあね。あの子が喜んでくれるのなら兄貴としても嬉しい」
「そういうことを聞いているんじゃないんだけどね…… どういう風の吹き回しだい?」
仁は傍まで来たシャルロットを持ち上げて膝に乗せてその背を撫でる。最初は触られると嫌な顔をした彼女だが、最近は仁に体を撫でられても目を細めることが多い。
「別に意味なんてないさ。強いて言うなら日頃の感謝かな。今も家事を一手に引き受けてくれて…… いつも支えてくれて」
「……なるほどねえ」
にたにたと、本当に猫にしておくのが勿体ないくらいに表情が豊かだ、底意地の悪そうな笑みを浮かべて仁の顔を見上げる。何だよ、と返しかけたとき、ベッドの方からブーブーと現代人の必須アイテムが揺れる音。ちらりと奈々華を窺うようにして見た仁。皿洗いは済んだようで、明日の弁当の仕込みに取り掛かっているらしかった。全寮制の学園にあって混み合う食堂を利用するのは料理が出来ない学生か、出来てもその暇がない若しくはその労を惜しむ学生だけだ。一番最初に該当する仁が人混みにまみれないのも偏に奈々華のおかげだ。
「おやおや。妹をデートに誘ったかと思えば、今度は違う女かい? もてる男は違うねえ」
猫がわざと大きな声を出すのは意地悪半分、親切半分。しかし奈々華の鼻歌はサビに差し掛かっていて気付いた様子もない。
「運が良かったね。ありゃ完全にトリップしてるよ」
親切のほうは報われず、仁はコタツを脱し、ベッドへ向かう。外部ディスプレイには「坂城遊庵」の名前が浮かんでいた。