第五章 第百七十二話:寝ぼけ眼の真実
「でもあの子のお父さんはジャーナリストだったんだってさ」
色気のあるピロートークとは成りようもない。一つの枕を仲良く分け合う兄妹は密着でなく、丁度平行線のようだ。二人の体の間には卵がある。まだ孵らない。元々自堕落な生活を送る仁ではあったが、最近は特によく昼寝をする。卵を温めるという命題。奈々華も律儀に付き合う。最初のうちは何とか追い出そうとしていた仁だったが、「二人であっためたほうが効率がいい」というおかしな反論を真に受けたわけではなく、何度言い聞かせてもまるで聞く耳を持たない妹に根負けした。
「本当は…… 心の底ではお父さんが好きなのかもしれないね」
行方の話。あお向いたまま目の焦点をぼかしている。下段のベッドから天を仰ぎ見ても、その先には木目の板があるだけだ。
「ふうん」
兄が女性の話をすると、奈々華は決まってつまらなさそうに聞く。話を変えろと、暗に指示している。
「坂城はどうなるんだろう? ミリーがケアしているみたいだけど」
「……」
変えた先も悪い。だけど仁は悪くない。
「あの子もまた凄く心が弱いのかも知れないね。でも……」
奈々華には全てを話している。男として兄として強がっていられるほど、仁は大人でも子供でもない。だけど、その先は言いよどんだ。「大切な人に裏切られるのは辛いよね」きっとそんな言葉を口にしかけたから。
「お兄ちゃんの友達って女の人ばっかりだね」
「……」
仁が一瞬苦しげな顔をした。そのまま黙りこむ。その沈黙の間に、奈々華は自身の失言に気付いていた。
「男の友達は皆死んでしまった」
「……ごめん。ちょっと考えが足りなかった」
精確でない。殺した。
仁が目を覚ましたのは、携帯電話が小刻みに揺れる音のせいだった。テーブルの上をガタガタと小さく滑っていく。起き上がろうとして、仁は引き戻された。シャツの袖を奈々華が掴んでいる。虚ろな瞳はそれでも仁を捉えていた。
「どこ行くの?」
「どこも行きゃしないよ」
「どっか行っちゃうの?」
話しが通じていない。どうも寝ぼけているようだ。仁と同じ理由で起きたわけではないようだ。仁が優しく頬を撫でると、再び安心したのか、目を閉じて寝息を立て始めた。
電話の相手は痺れを切らしたのか、携帯電話の振動は止まっていた。大した用でもないのかもしれない。仁の携帯電話の番号を知っている人間は学園内に留まるので、もし急ぎの用なら押しかけてくるだろう。
「まあ…… 後で折り返せばいいか」
というのが仁の結論。また起き上がった気配を感じて、奈々華が目を醒まさないとも限らない。
「そうだよね。奈々も寂しかったんだもんね?」
奈々華の睫毛の下、小さく光るものが見えた。
彼女はとても強い。そう思い込んでいたのかもしれない。俺に余裕がなかったのかもしれない。彼女だって不安な日々を、寂しい日々を送っていたと告白したではないか。ずっと共にありたかったと慟哭にも似た叫びを聞いたではないか。現に一度互いに離れたではないか。
小さな子供のように、俺を求めていた。それは再び俺に安らぎと居場所を与えてくれている。そんなこの子に一体何を返せているんだろう。何もしてやれていないから、泣いているんじゃないのか。また俺が居なくなるのではないかという妄想を、拭いきれていないのではないか。普段は俺を支えることにばかり気を揉んで、本当は怖いのではないだろうか。無意識と意識の狭間に見せたあの儚い姿は……
普通の家族ならきっとそこまでの依存はありえないのだろう。だけど、この子には俺しかいない。父は形骸、母は死去。俺にもこの子しかいない。父は形骸、母は顔も知らない。
仁は携帯電話を取りに向かうことはなく、ただ奈々華の隣でその寝顔を見つめていた。だから仁が、携帯電話の着信は公衆電話からのものだったと気付くのは、奈々華が目を醒まして、そのときには先の自分の行動をやはり把握していなかった、夕食の準備に慌てて取り掛かる頃だった。