第五章 第百七十一話:環境
よう、と仁が砕けた挨拶をかけると、少女は声だけで誰だかわかったらしく、振り向いたときには穏やかな微笑を浮かべていた。学園の廊下、冬季休暇の静けさが嘘のように生徒達で溢れている。その中でも染髪している人間は仁が知っている限り一人しかいない。
「久しぶりね。元気してた?」
相変わらず化粧は濃いが、悪い人間ではない。
「まあね……」
歯切れが悪いのは、世間一般に言う元気からは遠い状態にあったから。体に異変はなかったわけだが、祐の死、幻創痛、木室の裏切り……
「いつ帰って来たんだ?」
行方もまた休暇を利用して、実家に帰省すると言っていた。
「年明けよ。ぎりぎりまで母さんのところに居たわ」
「へえ」
母親のことにしか言及しないことに、仁は気付いていた。
「ここに居ても楽しくはないからね。将来のためにいるだけ」
「……ふうん」
「自分から話しかけといてさっきから覇気がないわね? 本当は何かあったんじゃない?」
「君は…… お父さんが嫌いなのか?」
「……」
大人げない。仁の頭にそんな単語がぽつりと浮かんだ。
「いや…… なんでもない。忘れてくれ」
「父は死んだわ。私が小学生の時に」
思い直したときには、遅くて、一度口から出た言葉は消えることはなくて、行方が目を伏せて言葉を紡いでいるのは、仁のせいだった。高等部の生徒が数人連れ立って教室を移動するために二人の近くにやってくる。問題児二人と目を合わせないようにして足早に横を抜けていく。
「父は嫌いよ。母さんを残して勝手に死んで……」
「……」
僕を残して勝手に死んだ。祐もまたその虚しさに苛まれた。それでも父を愛した彼と、父を憎むことにした行方は重ならない。それでもそこまでは育ててくれたんだろう? それでも親なんだろう? そんな言葉を軽々に吐けるのは他人であって、吐くべきでもないのは他人だった。仁とて金銭面以外は何一つ親らしいことをしない父を好いてはいない。
「自分の信念や情熱を曲げない人だった。そのせいで危ないところに首を突っ込んで死んだ」
「……」
「だけどあの人がやるべきは妻子を守ることでしょう? それを果たさないで、残された母さんにだけ負わせて。だから私は……」
嫌われても浮いてもこの学園に留まっている。行方が最初に、同様な立場で弱音を吐いていた仁に感情的になったのは許せなかったからだろう。もしかすると取材はただの口実だったのかもしれない。同じように疎外される者として何かしら助力をと考えたのかもしれない。
「行方……」
「……つまらないことを話したわね」
静かに仁は首を横に振った。
「俺の父親は存命だけど、金だけをどこかから送ってくるだけでもう何年も会っていない。きっと俺が学校を卒業する頃にはその仕送りもなくなるんだろうな。今どこにいるのかもわからない。足長おじさんより悪い」
「……アンタもお父さんが嫌い?」
「感謝はしているさ。最低限のことだけはしているって思ってる」
「模範解答ね」
「そうだね」
母親の居ない仁にとって、必要なのは金だけではなく片親としての愛情だった。
「少しおかしいんだ。俺は人として何かが欠けている」
それを父親のせいだけにするのはいささか性急な責任転嫁。祐、仁、行方。一緒くたにして考えるのは乱暴なのだろうけど、皆一様に周囲との協調に問題を抱き、皆一様に内に秘めた優しさをストレートに表現できない。それが父に対する不満からくるものなのかはやはりわからない。祐は今となってはわからないけど、少なくとも二人は全くの無関係だとは思っていないらしかった。
「まあ…… また部室にでも遊びにきなさいな。お茶くらいは出すわよ」
始業のベルが鳴り、それだけを残して行方は仁に背を向けて去って行った。