第五章 第百六十九話:静
「いいんすか? こんなコソコソ抜け出すような真似して」
時刻は深夜三時を少し過ぎた頃だった。いつものように中庭。風もなく虫の鳴かない冬の夜は時間が止まったような錯覚を覚える。葉を落とした草木の呼気は感じられず、丑三つの眠りより、永久の眠りについたようだ。だがそれは違う。暗い闇の中にあって、春の日差しがやがて必ず訪れることを知っている。
「仕方ない。静と二人で話したかったから」
奈々華が眠りについたのを確認して、仁は静だけを片手に部屋を抜け出した。
「村雲君もダメなんすか?」
からかうような口調に、仁はしかめっ面。細い目をもっと細めて腰に帯同している人生の大先輩を見つめた。
「……丸太鬼っすか?」
「お前には隠し事は出来ないな。飄々としていて本質を確実に見極めている」
「お褒めに与り光栄っす。だけど…… それは同属嫌悪っすよ」
仁は油の匂いをかすかに嗅ぎながら、ライターの炎に口元の葉を近づける。やはり全く風はなく、まるで夜の海を遠く照らす灯台の灯のように、煌々と燃えていた。しかしカチンと蓋を閉めると、役目を終えてマヤカシのように消えた。
「俺には鬼の顔を見分けることは出来ない。動物や外国人の顔をはっきり見分けられないのと同じように」
「あっしらもアンタ等人間の顔は判別が難しい。所詮違う生き物っすから」
「違う生き物……か」
「旦那はあっしらに近いけど、鬼じゃない。あっしや村雲君は旦那に近いけど、人じゃない」
「それは考え方が?」
「そっす」
「どこらへんが?」
「義憤よりも私怨に燃える。仲間には優しいけれど、他者には全く関心を示さない」
「……」
吸うことも忘れられたタバコの先から、長くなった灰がポトリと地面に落ちた。
「今から数十年前、面白い鬼の男がいました。鬼は普通同じ種族、即ち鬼としか馴れ合わない。小鬼なら小鬼。我々の生前、王鬼なら王鬼」
「……お前、生前の記憶はないって言ってたろ?」
「話しの腰を折るのは良くない癖だよ? 坊や」
普段は本当に必要なことしか喋らない老獪な刀も、その反動か、一度喋りだすと自分の話の腰を折られるのはあまり好かない。
「……」
「まあいいでしょう。いかにあっしが馬齢を重ねていても、それくらいは気付くもんっす」
「そうなのか」
「話しを戻すっすよ? 死後の刀鬼は刀鬼と。丁度あっしと村雲君のように」
威厳のある喋り方をする村雲が後輩で、若者のような喋り方をする静が先輩で、彼らの掛け合いは、滅多に見られないけれど、見ていて面白いものがある。
「だけどその鬼の男は違う種族とも仲良くした。いやもっと…… 違う色の精霊とも仲良くした。どんんどん友達を作って、どんどん仲間を増やした。時には裏切られ傷つけられることもあったけど、それでも彼は自分の道を曲げなかった。それが幸せであり財産だと信じて疑わなかった。そしてまた、彼の下に集った仲間もその優しさに惹かれて満ち足りた日々を送っていた」
「……」
「そんな日々は突如終わった。精霊狩事件。あのお嬢さんの説明に詳しいでしょう」
「……その仲間達がこっちの世界に召還された」
相槌も打たず、静は続けた。
「そして仲間を奪われたその鬼の男は立ち上がった。丸太鬼事件。仲間を失う苦しみは旦那も詳しいでしょう?」
嫌味は含まれていなかった。仁はコクンと首を動かした。
「精霊には…… 本能的に自分と本質的に近い人間の呼びかけに呼応してしまう習性があります。あっしが旦那のような若造に付き従っているのはそういう部分もあるっす」
「容赦ないな。少し寂しいぞ?」
「そういう部分もと言ったでしょう? 嫌いなら一緒に居ないっすよ。いくら本質的には近いとは言っても…… さっき同属嫌悪という言葉を出したでしょう? 人と人の付き合いとそこは同じ。うまくいかない場合もあるんすよ。実際に顔をつき合わせて語らって、苦楽の時間を共有して初めてウマが合うか判断できるんす」
こればっかりは長く生きていても、とこぼす。好き合う者同士でも、例え家族でも仲違いしたりする。奈々華と仁のように。経験や知識を積み重ねてもままならないのが心。
「悪意を持って呼び出していたなら悟ることはできなかったのか?」
「……麻痺してたんすよ。精霊もまた生き物であるということを忘れてしまったんすよ。風潮や教育。きっと携わった人間全てが悪い人間というわけでもなかった」
そんな馬鹿な、と感情的に叫びかけた仁は、すんでで留まった。動物の皮を着て、動物の肉を食べて生きている仁に、何かの命を奪って糧にしているという感覚が切実にあるかと言われれば、自信を持って頷けない。仁は黙って三角座りの靴の間にタバコを落として、右足で踏み消した。