第五章 第百六十六話:一人の時間
「坂城」
授業を終えて、自室へと階段を上る途中を呼び止めた。肩甲骨の辺りまで伸びた淡い栗色の髪が揺れて、仁を振り返った。丁度上から見下ろす格好になっている。
「仁…… な、なんだ?」
下りてくる。それを仁は手を振って制した。そのジャスチャーを理解していないからか、それとも近くで話しをしたいからか、坂城はなおも足を下の段へ動かす。
「下りてこなくていいよ。今からお前の部屋にお邪魔するつもりなんだ」
「え?」
突然の言葉に坂城は階段を踏み外しそうになる。軽いタップダンスを踊るようにして体勢を整える学園の最高責任者。仁は苦笑しながら一度ぺろりと下唇を舐めた。
「実は…… 鍵を貸して欲しい」
相も変わらず埃とカビの匂いが充満した場所だった。おまけに面積に対して照明が足りなくて、全体的に薄暗い。人を拒むような雰囲気はしかし、ある種の神秘的な静謐をたたえているようで、人によっては趣があると感じるのかもしれない。仁は学園の地下、膨大な蔵書の棚の間を縫っていた。坂城の曽祖父が私財を叩いてそのほとんどを集めたそうだが、この人が少し変わった人物で、蒐集自体に喜びを見出す性質だったらしく、手に入れた後は本棚に詰め込むだけという乱雑ぶりで、坂城にもどこに何があるのかわからないらしい。ちなみにその所管が余りに貴重極まりないものばかりであるため、一般の生徒が立ち入ることは本来なら許されないのだが、事情を聞いた坂城は仁に金色の鍵を渡した。
「……見つからないな。どこだ?」
仁が探しているのは黒の精霊に関する書物。坂城には鬼の卵を拾った経緯と、それを育てるつもりだということを話した。彼女は何となく察したのか、仁の辞職についてはあまり深く追求しなかった。鍵を受け取る段にかけた、「助かるよ」と言う言葉にはそういった配慮への感謝も込んでいた。
仁は目的の本を探す間、当て所もなく思考の海も彷徨っていた。一人だった。
思えばこっちに来てから一人になることはなかった。奈々華が部屋に居て、坂城やミルフィリアにちょっかいをかけられて、村雲や静は精霊としての本分と、誰かと何かと一緒だった。最初は久しぶりに人と仁を以って接する生活に戸惑った。一人になりたくもなった。
だけど……
今は、嫌いじゃない。
奈々華と過ごす日々は少しむず痒くて心地良い。厭世を続けていればあの娘と再び家族になることもなかった。村雲や静と話すのは、時に喧嘩になりそうになるけど、面白い。坂城もミルフィリアも良くしてくれる。
失われた人の顔が浮かんだ。近藤さん、祐君、ミルフィリアの両親、エリシア、柿木。皆殺した。失いたくない人もいた。守れなかった。今でも時折夢に見る。起きたとき、涙を流していることもある。怖くなる。悲しくなる。忘れていないのだと、安心する。消えてしまいたくなる俺を支えているのは、守りきれた人たち。奈々華。
だから……
今は、好きじゃない。
近藤さんの生き様を思うと恥ずかしくて叫びだしたくなる。祐君の最期を思い出すと、どうしてまだ自分だけがのうのうと生きているのだと憤りを覚える。抗いがたい自傷の衝動が湧き上がって胸が焼けるように熱くなる。そして妹に縋って、周囲に甘えて、醜く生きている。
「……これがいいか」
散漫な意識下でも、目はキチンと黒の背表紙を認識した。「中谷慎二に見る黒の精霊についての考察」とある。仁は深く息を吐いて、ついでに本の上に溜まった埃を落とした。