第五章 第百六十三話:卵と辞職と親子
「主! 上だ!」
張り上げた声に、仁がすぐさま上を向くと、粉塵とネオンの光が交差する空に異質なものが浮かんでいる。白い楕円。それが徐々に大きく、はっきりとしてくる。
「卵?」
突然現れたそれも、重力の洗礼に遭い、落下を始める。落ちる先は仁の頭の上。ゴン、と鈍い音を立てて、それを仁は当然かわした、アスファルトの上に墜落する。やはり卵にしか見えない。仁はダチョウの卵なら、動物園で見たことがあるが、そんなものの比ではないくらいに大きい。彼の膝上あたりまである。
「主! 前だ!」
鬼が猛然と仁目掛けて駆けている。一つ一つの動作は鈍重だが、歩幅が大きいので、村雲の注意が飛んだ頃には既に両者は十メートルと離れていなかった。すぐに顔を垂直に上げると、巨大な拳が振り下ろされようとしていた。すぐさま回避行動。改めて常人の反射神経ではない。横に跳んだすぐ後に、アスファルトに大きなクレーターが出来る。ゴトゴトと大きな音が足元から聞こえる。どうやらアスファルトを突き抜け、下水道にその破片が落ちているようだ。腕を引き抜いた鬼が、顔を横に向ける。無数の目が仁を捉えていた。明らかに仁一人を狙っている。
「あ、主! どうして卵を? 早く捨てなされ!」
「割れちまったら可哀想だろう?」
ついさっきまで見ていた同じ人間の失命を悼むことはしないくせに、何かもわからない卵を大事に抱えている。
「来ますぞ!」
鬼の恐ろしい目たちが一瞬、悲しげに揺れたような気がした。
広畠が仁の下へ救援に駆けつけたときには、辺りは騒然となっていた。救急車やパトカーが縦列駐車も憚らず、多くの野次馬が黄色いテープで仕切られた区画の外を覆っていた。また一台、救急車が怪我人を乗せてけたたましいサイレンを鳴らしながら発進する。その開いた場所に次にやってきた白いワゴンが停車して、中から白装束の隊員たちが飛び出す。広畠はパトカーの横に二重駐車する羽目になった。
仁は騒動の中心にいた。紺の制服を着た警官達に囲まれている。
「おい! 城山! 大丈夫か?」
テープを乱暴に引き上げて中に入ると、ずかずかと警官の群れに突っ込む。仁は広畠の顔を見ると、安堵に顔を綻ばせる。平素なら事前に警察へは事情を説明しているのだが、スクランブルはそうはいかない。それでもこういった繁華街は重点的に井須が調べているので、出現先はほとんど人里離れた場所。これまで警察に先を越されてしまうような事態にはならなかった。
「ええっと、上司です」
仁は広畠に無事だと告げ、警察への対応を任せた。
ようやく騒ぎも収まった頃、広畠と仁は事務所へ帰ることを許された。人が引いていくと、辺りの凄惨さがより目につく。血痕があちこちに散っていて、片付け損ねた小さなコンクリートブロックの破片たちは、後日回収されるそうだ。
「お前…… それは何だ?」
広畠は顔ごと仁の胸に抱かれた大きな卵を見ている。
「鬼の卵のようです。コレを探していたのかもしれません」
「……なるほど。丁度運動して小腹が空いていたから、好都合だな」
「落ち着いて下さい」
冗談だよ、と広畠。鬼の死骸があった辺りに目を向ける。既に研究所を名乗る集団が持って帰った後だった。今はへこんだアスファルトにおびただしい失血の跡が残るばかり。
「何となく、彼らには隠していたんですが…… まずかったですか?」
「……なんで隠したりしたんだ?」
責めるような声音ではなかった。彼は研究所の連中を快く思っていない。彼らの利益を図ろうなどという気持ちはハナからない。
「鬼にも、親と子があるんですよ。親は仕方なく殺しましたが…… ただ子を求めて当てもなく彷徨って、見つからなくてやり場もなく猛り狂っていただけだとしたら、可哀想な話です」
そして言葉通りの顔をした。
「……お前は変なヤツだな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
笑った。仁ははじめて広畠の穏やかな笑顔を見たような気がした。そして手を差し出した。
「お前とはもう少し一緒に仕事がしたかったよ」
仁はクシャクシャになった封筒を、上着のポケットから引っ張り出した。それを広畠は両手で受け取った。
「……僕もです」
だけど、最後にほんの少し、心を通わせることが出来たのかもしれない。
「この卵どうしましょうか?」
「退職金代わりだ。好きにすると良い」
トラックへと足を向ける広畠の背がやけに小さく見えた。