第五章 第百六十二話:異常事態
「お前、運転はできるか?」
電話を切るや、広畠は仁に鋭い目を向けた。既に死線に身を置く者の目だ。仁は困惑しながらも頷き、すぐに思い出したように口を開いた。手には行くアテを失った辞職願が握られたままだった。
「でも…… 俺免許持っていません」
正確にはこちらの世界の日本で通用する免許だが。
「んなもん、見つからなきゃいいんだよ。公僕に止められても突っ切れ。後でどうにかする」
広畠は言いながら、コートを羽織り、車のキーを仁に投げる。危なげなく受け取った仁、それでも表情は固かった。
「それに、俺は……」
「俺はそんなもん、まだ受け取ってねえ。今は職務中だ。そしてお前はうちの職員だ。俺の指示には従ってもらう」
高圧的だが、仁は嫌な気持ちにはならなかった。
「……わかりました」
「いい返事だ。中谷駅前のメインストリートに向かえ。一人でもいけるな?」
仁は絶句する。本来の職務形態から逸脱する単独行動もさることながら、そんな人通りの多い場所にはぐれ精霊の出現を許してしまった事態に、仁は驚きを隠せなかった。最近おかしいんだ。ヒメネスの言葉が否応なく思い出された。
「ぼやぼやするな! 行くぞ!」
広畠はもう事務所の引き戸を乱暴に開けて、外に出ようとしている。
「あ、あの。広畠さんは?」
苛立った顔が仁を振り返る。
「もう一体出たんだよ。俺はそっちだ」
最近おかしいんだ。世界がおかしいんだ。
目標はすぐに見つかった。黒檀にニスを塗ったように、夜の闇にあって毒々しく輝いていた。黒い体色の巨大な化け物。並ぶ雑居ビルと同じくらいの背丈。背にはコウモリのような羽が生えている。人の男性と変わらない体のつくりで、下半身には赤茶けたパンツを履いている。
「鬼か?」
それが暴れている場所から数百メートル離れた場所に軽トラックを停める。生憎路上駐車を気に留める余裕はなかった。逃げ惑う人の波。阿鼻叫喚。血を流して倒れている若者が見えた。失血量から見るに既に息はないだろう。元はビルだったコンクリートの塊がその上に降り注ぐ。はるか上方で今まさに、それが破壊活動をしているのだ。拳を叩きつけるだけで、豆腐を潰すようにビルが壊れていく。また拳を突っ込む。引き抜いた先から、オフィス用のデスクが飛び出した。頭から血を流し、よたよたと歩く女性を、押し退けて逃げる金髪のごろつき。路地裏へ走りこむ背広の男は、既に左腕がなかった。
「……村雲。アレは鬼か?」
頭部を見やると一本長い角が生えている。顔には口や鼻はなく、目玉が吹き出物のようにそこかしこにあるだけ。二十は下らないだろうか。
「下級のな」
短い返答。地獄絵図の中にあって、誰よりも冷静な一人と一振が人の波を掻き分けて、渦中に体を滑り込ませていく。彼らがその下へ辿り着いたとき、鬼の暴虐は終わる。そう見ると、鬼は最後に本能的な破壊衝動に身を委ねているようにも感じられてくるから不思議だ。
「アレは本来大人しいはずなんだがな……」
村雲の言葉は喧騒に耳を塞ぐ仁には届いてはいなかった。