第五章 第百六十話:察し
第五章 綻ぶ世界と黄の真相
出勤の前にヒメネスの病室を訪ねることにした。仁がいつか運ばれた病院。仁の職場からの患者は二十四時間最優先で受け入れているらしい。お偉いさんと太いパイプで繋がってるんだとよ、とは広畠の言。
ヒメネスは三階の個室病棟の一室にいた。むちうち患者がつけるような固定具を首に巻かれている。それ以外は特に目立った外傷はなさそうで、仁は心の中で安堵する。
「ヒメネス。大丈夫かい?」
仁が声をかけると、にこりと笑った。しかしいつもの天真爛漫を絵に描いたようなものではなく、弱々しい。来客用のパイプ椅子を引き寄せて座る。
「大丈夫。大袈裟」
また笑う。仁はそんなに深刻な顔をしていただろうかと、頬の辺りを触るが、平静な顔をしていた。大袈裟とは、この処遇についてだろう。
仁の幻創痛が快方に向かい始めた頃、ヒメネスが職務中に怪我をしたと知らされた。いつもの淡々とした広畠の声だった。仁は少なからず衝撃を覚えた。年が近いせいもあってか、職場内では一番仲がいい。もう一つ。ヒメネスは白の魔術師だと聞く。つまり相方の防衛もままならぬまま、若しくはそれを掻い潜ってヒメネスに攻撃が届いたということになる。精霊は辛くも倒したと広畠は言っていたが、それほど強い精霊が井須の探査網に引っかからなかったことは由々しき事態だ。
「何か最近おかしい」
思考の渦に埋没していた仁は、ヒメネスの躊躇いがちな声に、我に帰った。そして顔に疑問符を浮かべた。ヒメネスは主語を抜いて話す傾向がある。
「何がおかしいの?」
「世界」
他の人間なら随分哲学的な話が始まると身構えるところだが。
「今まであんなに強いはぐれ精霊に会ったことない」
しかし、今の事態。仮にも仁よりも長くはぐれ精霊狩りに携わっているヒメネスが入院を余儀なくされる事態。井須も見つけられなかった強大な精霊。よほど知能が高く、潜伏も上手いということになる。今まで現れなかった強力で狡猾な精霊。世界、正しいのかもしれない。
「どんなヤツだったの?」
「……」
ヒメネスは考え込むようにして口をすぼめた。
「悪魔」
そしてそれ以上に、自身が対峙した精霊を上手く形容する言葉は見つからなかった。仁は予想外の言葉に、息を飲むのも忘れてヒメネスをじっと見つめた。
「悪魔……」
「うん。スターダストデビルって、井須さんは言ってた」
「スターダストデビル」
聞きなれない。もっと言えば仁が知る精霊はほんの一握りに過ぎない。しかし、一つだけ当たりをつけることができる。
「それは…… 黒の精霊なんじゃないか?」
ヒメネスの目が忙しなく揺れる。壁や窓に逃げるそれから、仁は既視感を覚えていた。ひょっとするとヒメネスは口止めをされているのかもしれない。ねめつけるようにしていた仁も、やがてヒメネスがこれ以上口を動かさないことを悟って、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……邪魔したね。お大事に」
そうかもしれない。世界が変調しているのかもしれない。優しかった木室は偽りで、賢い友が死に、街が破滅へと向かっている。きゅるきゅると立て付けの悪い引き戸を開けて、部屋の外に出る。白い廊下を白衣の看護婦が足早に過ぎ去っていくのが見えた。黒一色の仁の出で立ちとコンストラストを生むようだった。
「楽な思考だよね」
仁が歩んだ軌跡は、紛れもなく仁自身が紡いだもの。そして今回の出来事についても、仁には心当たりがある。
病院を後にした。