第四章 第百五十九話:誓い
痛みは天井知らずに膨れ上がっていた。吐き気を堪えるような呻き声が、夜の部屋にこだまする。二人の話では、その終わりが近づくにつれ、痛みも増していくのが幻創痛の特徴だそうだ。背をさする奈々華も今にも泣きそうな顔をしている。「大丈夫?」なんて安易に声もかけられない。青白い顔で胸を押さえる仁の体は、壊れたように震えている。体温は全く低下していない。全ては幻。しかし本人には現実。
「うう…… ぐ、あ」
片手は胸を押さえ、開いた手が口元を押さえ始めた。
「袋持ってこようか?」
奈々華の言葉に、弱々しく頷く仁。奈々華はすぐさま立ち上がって台所から透明の袋を持って来たが、仁に渡す前に、堪えきれずに嘔吐する。黄色い、すえた匂いのする吐しゃ物がカーペットの上にぶちまけられた。それを見て奈々華はUターンして布巾を片手に帰ってくる。せっせと拭き取る。仁の顔に謝意のようなものが浮かぶ。
「気にしないで。こんなこといくらでもやるから」
その言葉に嘘はなく、手早く作業を終える。きっと後で改めて水拭きしたり、天日に干したり、仁の知らないやり方で、匂いも取るのだろう。次にティッシュペーパーを二、三枚まとめて取って仁の口の周りを拭いてやる。仁が嗚咽の隙間に笑う。
「いいってば」
奈々華も薄く笑む。彼女の苦になっていないことははっきりと見て取れる。
少し落ち着いてきた。月が自転して、違う場所の海水をその引力で引っ張り始めたのか。発症から三日たつ。早い者ならもうそろそろ終わりを迎える時期だ。しかし、ストレスも関係するという話。仁の場合もう少しかかるかもしれない。今でも時折、眠りながら涙を流しているのを奈々華は一番近くで歯痒く見ている。仁は困憊した顔で呼吸を整えている。天井のシミでも数えているような、ぼんやりとした目でソファーの上に仰向けになっていた。
「落ち着いた?」
奈々華は洗面器と水の入ったコップを持ってきた。口をゆすいで、と渡す。上半身だけ起こして受け取った仁は口をゆすいだ水を洗面器の中に放り込む。「歯医者さんみたいだ」と力なく笑った。奈々華も釣られて笑った。
「最初は天罰だと思った」
仁は遠い目をしていた。天井を見ているわけではなく、もしかしたら、天国に居る祐に話しかけたいのかもしれない。奈々華は黙って頷いた。
「でも…… こんなの祐君が受けた苦しみに比べれば罰でも何でもないんだ」
また頷く。気配で察する仁は妙な安心感に包まれていた。
「だからコレは俺の過失。神様も悪魔もこの世にはいないんだ」
今度は頷くことはせず、奈々華は仁の顔の横に腰を落ち着かせた。小さく髪を撫でることで相槌とした。
「お尻撫でていいの?」
「ダメ」
ふふっと鼻から息を漏らすタイミングは二人揃っていた。
「あるのは人の良心と葛藤だけ」
そうかもね、と奈々華。同意してくれるとわかっていたはずなのに、優しい声音に仁の顔は綻んだ。
「だから乗り越えなくちゃいけない。忘れるわけじゃない。壊れないようにするんだ」
ぐっと握った拳は、もう要らないなんて言わない。いない神にではなく、それを望んでくれた友に宣誓する。その拳に、そっと奈々華の手が重なった。温かくてかけがえのない手。壊れそうになる自分をいつだって治してくれた手。彼がついぞ持ち得なかった家族。その支えがあって出来ないはずがない。たとえ血に濡れた道でも、歩みを止めるよりはいい。憎いなら殺しきればいい、と彼は言った。そう、それでもついて来てくれるのだ。祐も近藤が支えを求めれば、きっと身を粉にしてもついて行ったはずだ。それが家族なんだ。傍目には狂っていても間違っていても、いい。相手が家族を奪う気なら、相手を奪おう。人である前に兄であろう。
「俺は守るよ。どんな手を使っても」
第四章 束の間の充足と緑の覚悟 了