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第四章 第百五十四話:寒気

「……ごめんなさい」

からからと自転車の車輪が回る音に掻き消されそうな奈々華の声を、仁は正しく聞き取った。寝巻き姿の奈々華に貸し与えたコートに目をやり、もみあげの下を掻いた。

「いいよ。俺のために駆けつけてくれたんだし。俺あんま風邪ひかないしね」

あんまりというより、仁は二十一年の人生の中で一度も風邪を引いたことがない。奈々華はぶかぶかのコートの袖を一度引っ張って、首を横に振った。

「そうじゃなくて…… お兄ちゃんの傷は……」

「前にも言ったろ? お前のせいじゃないって」

遮った仁の声は、明るかった。それが妹を深刻にさせないためにわざと出されているものだと、奈々華には痛いほどわかった。自分の痛みを堪えている。心も体も。胸が熱くなる。

「私が無理にでもお兄ちゃんについて行けば…… もっと早く駆けつけていたら……」

仁は傷を負わずに済んだ。祐は死なずに済んだ。

「違うよ…… 俺が君を連れて行きたくなかったんだ。俺が彼を守れなかったんだ」

「お兄ちゃん……」

「俺が彼を守れなかったんだ」

噛みしめるように反芻された言葉に、もう明るい調子はなかった。



仁は道中痛みを訴えることもなく、ただ黙々と帰路を辿り、住み慣れた部屋へと戻ってきた。時刻は深夜というより早朝に近い。部屋のカーテンも薄明るい夜明けの空気を取り込んで、淡く光っている。

「何か食べる?」

「……いや、いい。寝るよ」

そう言うが早いか、ベッドにもぐりこむと、すぐに寝息を立て始めた。肉体というより精神の疲労が、彼を極限まで追い詰めていた。今からもう一度眠る気にもならず、奈々華は黙ってそれを見ていた。

最近はいつもそう、眠れない夜を越え、体力の限界に伴って泥のように眠る。それでもまだ眠れるだけマシだと、仁は一度自嘲した。

余程疲れていたのか、寝息はいびきに変わる。ゴーゴーと地鳴りのように低い音を立てながら、青年は布団を目深に被って休息を取る。寒気を感じる。ふと医師の説明が奈々華の頭を過ぎる。

するりと布団を持ち上げ、起こさないように仁の隣に体を寄せる。人は暖かい。しばらくそうしていたが、やがて仁の顔が歪み、終いには「ぐう」とも「うう」ともつかない唸りを上げ、目を覚ました。虚ろな目が奈々華を捉える。しまったと思った。勝手に布団に忍び込んでいるのを見られてしまった。しかし仁の反応は奈々華の思っていたものと三百六十度反対のものだった。


ぐいと引き寄せられた体が、仁の厚い胸板に吸い込まれる。


「お、お兄ちゃん?」

奈々華は湯沸かし器よろしく、顔から湯気が出る勢いで赤くなる。喜びを感じる余裕より、狼狽が一番大きい。仁の腕が奈々華の体をなおも締め付けるようにして抱きしめる。

「寒いんだ」

その声は、奈々華の気持ちを静めるのに十分なものだった。暗い穴の底から助けを求めるような頼りなくて、辛い声。

「ごめん…… ちょっとこうさせていてくれないか? すぐに引くと思うから……」

本当に心苦しそうな声音。奈々華は胸が張り裂けそうになった。

「うん…… 気が済むまでこうしていて。ううん…… ずっとこうしてたっていいんだよ」

それは彼女の女としての事情。仁が受け取るのは妹としてのいたわり。

「ありがとう……」

それだけを呟いた仁は、母親に抱きすくめられた幼子のように、安心しきった顔になって…… やがて少しだけ腕の力を緩める。ゆっくりと力の抜けた腕の中で、奈々華は全身で兄を感じていられるように、身動ぎ一つしなかった。



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