第四章 第百五十三話:幻創痛
「くそ。このコンピュータずるいな。何でいっつも三順目以内で曲がるんだよ」
奈々華が病院に着き、案内されるままに訪れた病室で、仁は携帯ゲームをやっていた。暇つぶし用に職場に持ちこんだものだ。奈々華はその光景を口を開けて呆然と眺めている。倒れたとの一報に駆けつけてみれば、中国発祥の遊戯にいそしんでいるとは夢にも思わない。熱中していた仁も部屋の戸が開いたことに気付き、そちらを見やる。呆然としている妹、困ったような怒ったような看護婦。
「城山さん。院内でゲームをしないで下さい」
幸い個室だが、そういう問題でもない。そのとき、突然奈々華がかけ出し、ベッドで半身を起こしている仁の胸元に飛び込んだ。埋めた顔は、小刻みに震えていて、すすり泣く声がする。仁はやや気まずそうにゲームの電源を落として、看護婦に視線をやる。外してくれ、と取った看護婦は黙って部屋を後にした。
「奈々華…… 悪い。心配かけた」
無骨な手が奈々華の頭を優しく撫でる。少女はただこれでもかと兄の胸に鼻を擦りつける。ヒックヒックと酔っ払いのような嗚咽がして、やがて小康状態に入る。
「髪がくすぐったいから……」
仁の顎のあたりにつむじの辺りがある。少しして奈々華がゆっくりと顔を離した。腫れぼったい目で仁を睨む。
「……倒れたって聞いたんだけど?」
ゲームをするくらい元気だとは思わない。
「ああ、死ぬかと思うくらい痛かったんだけどね……」
今度はその不穏な単語に顔を歪める。それを見てとった仁は慌てて手の平をブンブンと振り回した。
「もう大丈夫。体に異常はないらしいし」
「じゃあどうして倒れたの? 痛くなったってどこが? もう大丈夫って本当?」
矢継ぎ早の質問に、仁は苦笑いを浮かべる。部屋の戸がコンコンとノックされる音。これ幸い、「どうぞ」と入室の許可を仁が出す。現れたのは中年の医師だった。四十代くらいだろうか、薄くなった頭と丸っこい体は妙に愛嬌がある。先程の看護婦が遅れて顔を出した。
「幻創痛……」
読んで字の如く、今はない傷口に痛みを覚えるものである。医師の話を総括すると、その発症には二つの要因がある。一つ、反対属性の魔法によってかつて負った傷があること。必然、魔術師特有の症状である。仁の場合はエリシアの精霊に引っかかれた傷ということになる。二つ、ストレス。これは祐の死が引き金となっていると考えるのが妥当だろう。
「激しい痛みと、人によってまちまちですが…… 寒気。城山さんにはあるみたいですね」
補足説明を入れる医師は、自分の責任のように申し訳なさそうな顔をしている。見た目どおり人のいい医者のようだ。
「それらが前触れなく訪れ、引き…… その繰り返しです。通常数日から一週間程度で自然と消滅するようです」
看護婦が横から口を出す。医師は苦笑しながら「過去の事例ではそれくらいの期間が最も多いようです」と付け足す。
「その間は安静にしていてください」
その言葉に、奈々華は少し不安げな顔になる。
「入院とかしなくていいんですか?」
医師はまた眉根を寄せて、首の後ろを掻く。
「いえ…… 先程も申しましたように、何分神経痛と言いましょうか、多分に患者さんの感覚的な問題なので、医学の領域ではないのです。勿論痛み止めのお薬はお出ししますが…… 入院していただいてもこちらとしても手が出せない状況でして……」
何度か言葉を切って、言った。
「ご自宅で療養していただくという形になります。何かございましたら、ご連絡いただくということで……」
はい、と仁は、恐らく既に同様の説明を受けていたのだろう、ベッドから出て患者用のスリッパに足を入れる。看護婦と医師は深々と一礼して、部屋から出て行った。
仁は患者用に用意された薄緑色の服を脱ぎ、ベッドの先にあるカゴに入った自分の服に着替え始める。
その胸には、傷も何もない。奈々華は顔を俯けて、赤みの取れてきた自分の指先を見つめていた。