第四章 第百五十二話:乱れる心
奈々華の携帯電話に着信があったのは、午前三時を少し過ぎた頃だった。鬱陶しそうに枕元に置いたその文明の利器を取って出たのだが、電話口の声を聞いて、頭にかかるぼやけた霧が振り払われた。
「城山君の妹さんですよね?」
広畠の落ち着いた声。奈々華が一昨日聞いたばかりの声。はい、と答えた奈々華の声は震えていた。
「……落ち着いて聞いてくださいね?」
じわじわと心に禍々しい蔦が張っていくように、緊張と不安が伸びていく。はぐれ精霊と闘う仕事、いつ何時命を落とすかもしれない仕事。仁の強さを信じていないわけではない。だけど……
「何かあったんですか?」
裏返りそうな声を必死に落ち着かせて。既に布団から抜け出し、梯子の一番上の段に足をかけていた。
「……城山君が倒れました。すぐに来て下さい」
「どこに行くんだい?」というシャルロットの声を置き去りに、奈々華は寝巻きのまま廊下へと飛び出していた。
広畠の話では、仁は突然胸を押さえながら倒れたらしい。意識はあるようだが、近くの病院に搬送されたということ。それから、彼は突然現れたはぐれ精霊の討伐に向かうので、仁の近くには居られないということ。後は病院の場所、幻創痛という単語、そんなことくらいしか奈々華の耳には残らなかった。無事の一報への安堵と、病院にまで運ばれたという事態への不安が混在する心が出した結論は、一刻も早く兄の下へ駆けつけなければいけないという至上命題。
パジャマ姿の少女にとって、十二月の外気は無情であったが、まるでそれどころではなく、仁の自転車にまたがり、仁は最近は坂道が寒いなどと言って使わないから奈々華が呆れて買った意味を問うたことがある、何かにぶつかればただでは済まないようなスピードで坂を下っていく。赤くしもやけた両手も、体温を奪われた蒼白の顔も、何もかもがどうでもよかった。今の彼女には自身の身など石ころも同然だった。
事態は深刻だった。まだ敵にやられたというのなら対処のしようもある。傷を癒すことの出来る彼女が行けば万事解決だ。しかし病気の類だと彼女に手立てはない。幻創痛。聞きなれない単語に、奈々華の心は大きくかき乱されている。少なくとも彼女の居た世界にはない言葉と症例で、それが及ぼす害悪も、回復の手段もわからない。少なくとも倒れるような体の変調なのだ。もし治療方法がなければ……
心は更に悪いほう悪いほうへと思考を誘導していく。もしそれが遊園地で起こった事件に起因したとしたら…… 遊園地に誘ったのは自分だ。忠告が遅れたのも自分の怠慢だ。祐を失ったことにしても少なからず責任がある。その上、今回の兄の異変にまで関与していたなら……
「……うう」
小さく呻くような声が風に飛ばされずに耳まで届いた。知らず涙が零れていた。悔恨と自己嫌悪と不安。今までのように楽しく笑って過ごすことが出来ないかもしれない。残りの人生を病院で過ごすようなことになったら…… その原因が自分にあったとしたら…… もしかしたら兄に嫌われてしまうかもしれない。ハンドルを誤り、車体が大きく滑る。ただでさえ見通しの悪い斜面を、涙で濡れた夜目では仁の下へ着くまでに自分が大怪我をしてしまう。奈々華は一度車体を止め、両足を何とか地面につけ、掻き毟るように両目を擦った。
とにかく情報が足りない。今すべきことは、一刻も早く仁に会い、その安全を確認し、事態の把握に努めることだ。もう感覚の薄れてきた両手で、頬を一度パチンと叩き、自転車をまた走らせた。