第四章 第百五十話:先達
広畠はいつもと何ら変わらず、仁の姿を見つけると、おうと簡単な挨拶をした。仁も挨拶を返し、前日のことを詫びた。
「一昨日はすいませんでした」
深く頭を下げる。けじめ。真っ当に生きる人間はこうして社会に適合している。
「……おう」
そっけない返事。しかしそこに怒りも慰めもなかった。広畠は夕方からの連続勤務のようで、すっかり退屈しのぎの道具を持ち込んでいた。長テーブルの上に何冊かの文庫本が積まれている。背表紙から推理小説だとわかる。もう一度頭を下げてから、広畠の対面のテーブルに着席した。男二人、仕事上の付き合いしかない彼らに仲良く話せというほうが無理だ。いつものように待機あるのみ、考えようによっては楽な仕事だが、いざ緊急事態が発生すれば命懸けの仕事だ。
「あの…… お茶淹れましょうか?」
「……いや、いい」
ページから視線を上げることはなかった。彼は読書家で、ペアを組んだときは度々こうしている。仁にとって慣れた光景のはずだったが、今日に限って沈黙が耐え難いものに感じられた。手持ち無沙汰に堰を立ち、備え付けの冷蔵庫を開ける。飲みかけのペットボトルや乱暴に銀紙を千切られたチョコレート菓子などがあった。
「もういいのか?」
「え?」
くるりと仁が振り返っても広畠はまだ読書に専念していた。
「友達が死んだんだろ?」
いつもはもったいつけるくせに、大事なことは言葉を選ぶようなことはしない。そういうところが、仁は好きになれずにいた。
「……はい。ご迷惑をおかけしました」
定型文を読み上げるように、仁は申し訳なさそうな情感をこめて謝った。
「そうか」
広畠は短く。仁は怪訝な表情を浮かべた。人の事情に突っ込んでからかったりする彼も、ことがことだけに憚られたのかもしれない。それでも、仁は胸にモヤがかかったような気持ちになる。肩透かしを食らったと言ってもいい。
「あの……」
「何だ?」
仁はおもむろに立ち上がった。広畠の背に、大人が時折見せる冷たさや素っ気なさや怖さが詰まっているように感じられた。小型の冷蔵庫は、ひとりでにのんびりと閉まる。
「聞かないんですか?」
何があったのか、どうして休んだのか。友人が死んだとだけ伝えられたのでは、現場を預かる責任者として事態を把握し切れていないのではないか。しかし返ってきた答えは予想もしないものだった。
「……しけた面したヤツのしけた話しを聞いても仕方ないだろう?」
仁は目の前が真っ白になるほどの怒りを覚えた。同時に驚いていた。図星をつかれて激高できるほどの血気がまだ自分に残っていたことに。
「随分な言い草ですね」
押し殺した声は、頭の中で、向けられた背に刀を突き立てる映像を繰り返すことでようやく搾り出したものだった。
「守れなかったんだろう?」
今度も核心を突いた。
「どうして……」
心が読めるのかと、本気で思った。何か自分の知らない魔法でそういった類の能力を人に付加するものがあるのではないか、と。
「こういう仕事してるとな、仲間を失う場面もよくある」
「……」
「失ってしまったヤツを見ることも」
「……」
「ハートだよ。燃え盛るような闘争心ってやつだ」
パンッと大きな音をたてて、広畠の手の中で本が閉じられる。それを本の山の一番上に乱暴に置くと、広畠はゆっくりと仁を振り返った。
「人は失くしちゃいけないものを失くしたとき、己も失う」
今のお前がそうだ、と不躾に仁を指す。何か秘密にしていたことを突然暴かれたように、仁は泡を食っていて、それでいてやり場のない怒りを顔に浮かべていた。そんな彼の心の動きに気付いていないはずはないのに、広畠は涼しい顔で続けた。
「そっからだ」
「……」
「そっから人は二つに分かれる。何もかも失って過去に生きるヤツ。相手を憎み、人を憎み、修羅の道に墜ちるヤツ」
「極論です。相手を赦し、人を赦して生きる者もいます!」
知らず声を荒げていた。広畠の表情が今まで見たどれよりも冷たく、感情の見えないものになった。仁は虚しくなった。
「ならお前はそう出来るのか?」
「……」
無理だ。失った優しい友人は、死の間際までその道を仁に指し示してくれたと言うのに。無理だ。沈黙を正しく否定に受け取った広畠は、諦めたように目を瞑った。それが全てを物語っていた。
「皆が皆そうできたら、警察はいらねえんだよ」
もしかしたら、彼にもそういう過去があるのかもしれない。しかし今の仁に相手を慮るような余裕はなかった。ただ黙って顔を俯け、唇を噛んでいた。