第四章 第百四十九話:晴れない霧
今まで眠っていたとは思えない俊敏な動作で布団をはねのけた仁の顔は、異常に白かった。体中の熱を放ちきってしまったと言っても誇大表現にはならない。まるでおねしょでもしたように、仁のパジャマ代わりのスウェットズボンの踝には水が溜まっていた。胸板もぐっしょりと濡れている。布団の中はむわっとむせ返る熱帯夜の空気。荒い息を整えるように、しばらく半身の状態で暗闇に雌伏して、
「今日は寝ずに明かそう」
ぼそっと独り言。音を発しないと暗闇に解け行ってしまうような気さえした。こんな夜は、仁はいつも部屋の明かりを点けて、ゲームをしたり、気が向けば外へ麻雀をしに行く。どちらも気分ではない。奈々華もいる。胸が痛い。焼けるように痛い。乱暴に掴んでいた濡れそぼったシャツには、既に幾重にも皺が刻まれている。
「あ…… ぐう…… ああ」
痛い。掻き毟るようにシャツを掴む手が動く。新たな皺を作っていく。しばらく押し殺した呻き声を上げながら、ただじっとしていた。痛みが引いていく。胸の鼓動も落ち着きを取り戻していく。
「なんだったんだ、今のは」
「天罰だ」
仁は驚いたような顔をしている。自分以外の声だと本気で思っているようだった。それは仁の口から無意識に発せられていた。誰かを犠牲にしてのうのうと生き残る自分には、いつか天罰が下る。下らなきゃ嘘だ。遣わされた死神がそれを欲しているのかもしれない。
「今日は行くよ」
奈々華がいつものように、仁の携帯から職場へと電話をかけようとしたとき、突然そう言った。奈々華はくるりと振り返って、仁の顔を穴が開くほど見つめたが、何かが吹っ切れたわけではないようだった。未だその目に力はなかった。
「でも……」
「いつまでも迷惑かけるわけにはいかないだろ?」
仁が休んでいる間、当然誰かがそれを穴埋めしているわけだ。奈々華は少し躊躇ってから、伏し目がちに口を開いた。
「まだ続けるの?」
「……」
「祐君が死んで……」
まだ続けるのか。彼に言われて始めた贖罪の形。だけどもう彼は生活しない。学費はいらない。贖うことはもうかなわないのだ。それでもまだ続ける意味は一体どこにあるというのか。
「……行ってきます」
全ての会話を拒むように、外套を手にとって、羽織って、玄関戸に真っ直ぐ向かった。
何かしていないと潰れてしまいそうだった。奈々華の言うとおり、もうこれに贖罪の意義はない。相手がいない贖罪は自慰に等しい。それでも、彼は祐の葬儀及び墓代を、立て替えた近藤の懸賞金に補填するつもりだった。それくらいしか、今の彼にとって有意義だと思える行動はなかった。街の見知らぬ住人を守るなんて大義に殉じれるほど、彼は純朴ではないのだから、行動理由にはそれしかなかった。果たしてまっさらな状態で近藤の命の対価を残していたところでどうなるのか、使い道すらわからない金はまさしく宝の持ち腐れ、腐らせるためにあるのかも知れない。そんなことをとりとめもなく思いながら、寒風の吹きすさぶ街へと歩いていった。