第四章 第百四十八話:イノセンス
「仁の様子は?」
自室に戻ってきた義理の姉の姿を見るや、坂城は首を回した。その動作があまりに素早くて、ミルフィリアは一瞬驚いたが、すぐに平静を取り戻した。そしてそれとは対照的にゆっくりと首を横に振る。奈々華の気遣いで、仁は面会謝絶扱いになっていた。外部からの刺激を断つため、というのが仁と二人きりになる口実ではなく、本心からの願いだとわかって、二人はそれを呑んだ。
「……そうですか」
だけど、こうして毎日その様子を奈々華に聞きに行っていた。そして芳しい進捗も変化もその口から聞くことが出来ずにいるのだ。ミルフィリアはふうと一つ息をつき、自身の椅子に座る。坂城の執務机の斜め向かいが彼女のテリトリーだ。だから姉妹は今、体を斜めにして向かい合っている。
「無理もないでしょう。あの様子だと」
遊園地のアトラクションから下りると、奈々華がどこかへ一目散に駆けていくのを見て、追いかけた。追いかけた先で絶望の風景を見た。そこにいるただ一人の生者が、今まで見たともないような憔悴しきった表情でうなだれていた。
その後、死体の処理をかって出たミルフィリアに対して、仁は「祐君は負ぶって帰る」と言い出した。皆吃驚した。一件非常識に見えて、仁は分別のある男だ。だけど、その異様な判断に気付いていなかった。心がどこかへ行ってしまっている。そう思った。誰もが憐憫を抱き、優しく諭すと、何とか理解してくれたが、諦めて俯いた表情は例えようのない虚しさを持っていた。
「貴方は大丈夫なの?」
坂城は一瞬呆けた顔をしたが、すぐにたどたどしく頷いた。
「確かにショックではありましたけど……」
坂城にとって身近な者を亡くすことは、両親の死を想起させるのではないか。そういう心配だと早合点した。
「そうじゃなくて…… 木室さんのこと」
ミルフィリアも木室とは顔なじみだ。幼き頃より坂城の世話役をしていたので、彼女の実家に預けられてときに出会っている。教員として働くに際しても幾つか言葉を交わしている。しかし彼女の裏切りについて最も衝撃を受けたはずなのは、坂城を置いて他にいない。
「……正直まだ実感が湧かないのです」
躊躇いがちに開かれた口から、躊躇いがちな言葉。頬にかかる毛先をいじくりながら、そっとミルフィリアから視線を外した。
「何かの間違いなんじゃないか、って。勿論仁が嘘をついているなんて思っていません。奈々華も目撃したと言っていますし…… でも何か事情があったんじゃないか、って」
最後は消え入るようだった。彼女は信じられないんじゃなくて、信じたくないのだ。
「だからこの目で見て…… 話して確かめるまでは」
人はそうして心の準備をする。凡庸なモラトリアム。しかし、坂城の場合は少し違うのかもしれない。額面どおり、幼い希望を捨てきれずにいるのだと、ミルフィリアは理解した。
「傷つくことを受け入れられずにいるのね?」
ゆっくり立ち上がると、目を合わさない、子供のような妹に近寄る。そっと頭を抱きしめると、優しい手つきで髪を撫でる。丁度赤子を抱いているようだった。
「姉様?」
ミルフィリアの胸に顔を埋められながら、少女は場違いなまでに無垢な声を出す。
「貴方は昔からそう…… 優しくて穢れを知らない子。自分の歪みに気付かないほど」
猫のように柔らかい毛が、手の中で小さく手折られた。