第四章 第百四十五話:喪失
「木室さん!」
戦局を打開した老婦人の名を叫ぶ。確かに二つ名を冠する魔術師だとは聞き及んでいたが、まさか一撃のもとにこれまで自分達が討ちあぐねていた古代竜を倒してしまうとは。やはり反対属性の恩恵か。仁には確かなことはわからなかったが、それはどうでもいいことだった。これで後は緑の幹部を倒して学園に帰るだけ。祐のぽかんと口を開けた顔を見る。こうして見るととても幼い。
「危ないじゃないですか! 討つなら言ってくれなきゃ」
そんな文句さえ感謝の言葉に近かった。このとき仁の頭に、どうして木室がこんな場所に居るのかなんて疑問は毛ほどもなかった。ただ隣にある希望とこれから始まる生活。
俺に近藤さんの代わりは出来ない。けれど、奈々華やミルフィリア、坂城…… 皆と一緒に遊んで帰って。きっと祐君は笑ってくれる。彼も変わりはじめている。逃げていてはダメなんだ。思い出を壊した俺は、思い出を作ってあげる義務がある。大丈夫、赦すと言ってくれたじゃないか。最初はぎこちなくても、少しづつ距離を縮めていけば…… きっと友達になれる。
「仁さん! 私が援護します。早く敵を!」
木室の怒号のような大声。仁は言われるまでもない。既に足は未来へと着実に回転を速めている。仁の目に柿木の顔が映った。狼狽に揺れている。それすら何だかおかしかった。
「祐君の前だ。人殺し沙汰はしないよ」
ただ昏倒してもらう。仁の中には腹に一撃入れて動きを止めようか、顎を殴りつけて失神させようか、贅沢な迷いがあった。どちらのビジョンも再生されていた。どちらにせよ、精霊なき今、彼女はただの華奢な少女。負ける要素はどこにもない。回す足は自然と速まり、もうあと数メートルで少女の体を捉える。
柿木の顔が醜く歪んだ。口の端を吊り上げたその笑みは、明らかに捕食されるものの顔ではなかった。仁の体が金縛りにでもあったように、動かなくなる。傍目にはわかりにくいが、前後左右から同質量の風が仁へと吹き向かい、その身をがんじがらめにしている。今度は仁の顔に狼狽。そんなはずはない、彼女に最早魔法を貸す精霊などいない、と。
仁の疑問を氷解するように、少女の背中からゆっくりと精霊の姿が現れる。禍玉・緑。いつか近藤と同化した赤き玉と同様の形。違うのは目の覚めるような緑の体色。やっと仁は自分の迂闊を知った。
「くそ……」
悪態をついてももう遅い。どうして彼女の契約精霊が一体などと言い切れる。
「仁!」
少年が駆ける。駆けているにも関わらず、彼の膝の筋肉の収縮さえ見えるようだった。世界の全ての時の流れが遅くなったような気分だった。少年の体が光りを放ち始め、仁は体にかかる圧力が緩まるのを感じる。中和してくれたのか、と頭の隅。
少年の奥、木室の体もまたゆっくりと、禍々しささえ感じさせる、濃い黄色に輝き始める。仁が見たこともない凄絶な嗜虐の笑みをたたえている。
「ダメだ! 来るな!」
口が言ったのか、心の中で叫んだのかすら、仁にはわからなかった。祐の必死の形相。その整ったパーツの一部一部さえ、色濃く仁の脳裏に刻まれる。木室の皺の走る手。その先から輝く黄金の矢。放たれた。真っ直ぐに仁へ。しかしその直線上を走る、賢く優しい少年。仁はようやく自分が呪縛から解放されたまさにその瞬間だと気付く。脳だけが動き、体は動いていなかった。まさしく金縛りだった。
「祐君!!」
慟哭は空しく虚空を走る。仁の体まであと数メートル。祐の胸から黄金の矢の切っ先が覗き、抉り、突き出す。祐の全身の躍動が止まる。きつく結ばれた口元からはゆっくりと赤い筋が垂れる。
「祐君!!」
ようやっと動いた体は、傾ぎ始めた少年の体を支えることしか出来なかった。妙に軽い。それが命が薄弱になっていく予兆のようで、仁は肩を掴んだ手に血管が浮き出る感覚すらはっきりと覚えた。祐は既に反応をする力もなく、ゆっくりと目を閉じる。安らかな顔だ。このまま死んでしまうのではないか、頭に過ぎった。しかしそうではなく、祐は言葉を探していた。辞世の句を。また目が開く。トロンとした眠たげな目。仁は知っている。人が目から終わっていくのを。
「……無事か」
少年の声は、息を漏らすようだった。口の端から滔々と赤い血が流れる。
「祐君! 喋っちゃダメだ! すぐに…… すぐに奈々華を呼ぶから。アイツは反対属性の傷も治せるんだ。こんな傷……」
抱いた体が、腕が人にあらざる白に染まっていく。やがて人をただの有機物の塊に変える終わりの白。腕に伝わる体温が、徐々にその優しさを失っていく。賢さを失っていく。冷たい氷を抱いているようだった。
「ねえ……」
「……喋っちゃ!」
「狂っちゃダメだよ。逃げちゃダメだ。アンタには…… 家族がいる」
お願いだ。神様。この子を助けてくれ。俺の命なんてどうなってもいい。
「お父さん…… お母さん…… こわい…… よお。でも……」
祐の手が真っ直ぐに天に向かって伸びる。目はどこを見ているのかわからない。
伸ばされた腕がカクンと落ちる。
「……祐君?」
ドロンと濁った目。動かない白い唇。生きた証すら奪っていくような、消えいく残り香の体温。
「あ…… ああ。祐君! 祐君! 祐君! 祐君!!」
死者を揺すり続ける仁の耳に、どこかで誰かの嘲る笑い声が聞こえた。