第四章 第百四十二話:妹の歪み
青い巨大な鮫をモチーフにしてはいるが、恐怖より微笑ましさを感じさせるデフォルメがなされている。逞しいワイヤーが天井からそれを吊るしていて、ブンブンと前後に揺らしている。
「私の世界じゃ海賊船って相場が決まってるんだけどなあ」
誰にともなく奈々華が言う。女三人の遊園地もまた和気藹々とはいかないものなのだった。だからこの言葉も返事が返ってくるとも思わずに言ったのだ。案の定坂城が一瞬振り向いたが、ミルフィリアにいたっては何も聞こえなかったかのように、すました顔で階段を登っている。搭乗口は当然高い位置にあって、少女達は仕方なく一緒に回っていて、このアトラクションに乗ろうとしていた。
「スイマセン。お二人様づつとなります」
階段の最上部、目と鼻の先に黒い革のシートと、黄色い安全用の固定具が見える。確かに二席づつ列になっている。
「……」
「……いいですよ。私は下で待っているんで」
奈々華は二人の返事も待たず、登ってきた階段を下り始める。坂城が何か声をかけたようだが、奈々華は振り返らずにカツカツと金属製の段を踏みしめて行った。
「感じ悪くないかい?」
ベンチに腰掛ける奈々華の足の下から、白い猫がひょっこりと顔を出す。睨むようにしているのは、遊びに行くのに置いていったからか。シャルロットは人間の遊びにも興味があって、テレビを見たり、トランプまでやろうとする。しかしいくら遠く離れても精霊は魔術師と一心同体。お互いの意志一つで精霊は空間を渡る。
「……いつからいたの?」
奈々華も負けず劣らず機嫌が悪い。彼女の飼い猫が覗き見をしていたという理由だけでもないだろう。怒っていたのはシャルロットも同じなのに、その不機嫌を見た途端、奈々華の足にじゃれついて機嫌を取り始めた。
「まあいいや…… あの人たちも私がいないほうがやりやすいでしょ?」
「まあそうだろうけど……」
「それにあの人たち自分のことしか考えてない」
仁がいなくなってつまらないのは奈々華も同じなのだ。だけれど、それでも仁と祐の和解を願っているというのに……
「それは私も同じか」
そもそも立案の時点で不純な動機がなかったかと問われれば、素直に頷けない。だから自分の卑しさを映し見ているようで腹が立つ。
「奈々華?」
「ううん…… なんでもない」
弱々しい誤魔化しは、キャーッと言う歓声に阻まれた。全員の搭乗が終わり、アトラクションが動き出したのだ。迫力満点に揺れる鮫。下に配置されたプールから水しぶきが上がり、どてっ腹にぶつかる。
「何が楽しいのか」
厭世の老人よろしく、冷めた視線を送る。
「アレに仁と一緒に乗っていても同じ台詞を吐けるのかい?」
「ううん? 最高に楽しいに決まってるじゃん。ていうか今シャルの代わりにお兄ちゃんがベンチに座ってるだけでも大分違うよ?」
「ヒドイ言われようだね」
クスクスと奈々華。
「冗談だよ。来てくれてありがとう。退屈だし気まずいし、どうしようかと思ってたんだ」
ふわっと宙を舞った機体の中ほど、坂城とミルフィリアが一瞬目に止まった。瞼の裏に焼きついたその表情は目を瞑り、口を大きく開けて何事か叫んでいるようだった。
「やっぱり兄弟仲良くだよね」
暖かい言葉とは裏腹に、悪寒が走るほど声音は冷え切っていた。シャルロットが首を持ち上げてその表情を窺うのを躊躇うほど。
「兄妹は一緒にいるのがいいよね」
膝上に乗ったシャルロットの背を撫でる。白い小動物はピクッと体を跳ねさせた。その違和感、恐怖の所以もわからないまま。
ふと目の前の通りを走り去る黒いスーツを着た老齢の魔術師。シャルロットも奈々華もその見知った背を見紛うはずもなかった。シャルロットはこの得体の知れない感情の波を鎮めるのに絶好だと思った。
「アレは木室さん?」
呟くように口にする。そうして怒り心頭の母親にお伺いを立てる子供のように、振り返って奈々華の顔を見上げる。
「確か都の役員との会合に行ってるんじゃ……」
学園の副代表として何か会合の場に駆りだされたとか。十二月頭から、一月まで戻らないと伝え聞いている。
「違うよ。アレは令嬢だってば」
「え?」
奈々華の表情は人形のように冷たかった。道端の石でも見るような目だ。
「そうだな…… 仁君一人ならどうとでもなるけど、今日は祐君もいるもんね。注意しに行こうか?」
そう言うと、奈々華が突然破顔する。その笑顔さえ、シャルロットの心を乱した。