第四章 百三十三話:係争
いつものように、お茶を汲みに仕事場へと向かう仁は、中庭を通り過ぎようとしたとき、かすかな話し声を聞いた。腕時計は午後八時を指した辺りで、真面目で向学心の強いここの生徒が学年末試験を控えたこの時期にふらふら遊んでいるとは考えにくい。つまりは余程重要な用事があるのだろうか。現に、話し声の片方は怒声に近い。喧嘩だろうか。
いつもなら関わり合いになろうともしない仁であったが、その日に限っては妙に気になった。もう一つの冷静な声が聞き覚えのある声に似ていたからだ。音の発生源にそっと近づくと、中庭の片隅、林立する木々の中に三人の人影が見えた。暗がりの中、声やかすかに窺える体格から、全員男のようだ。そして仁の推察どおり、一人は彼の知る人物のようだった。声変わりはすましているが、それでも少し高い声。聞き間違えるはずもない。
「僕が君の彼女に言い寄られているのがそんなに気に入らないかい?」
静かな声ではあるが、不思議と通る。仁の耳にも祐の声ははっきり聞こえた。
「……ユミは関係ねえよ」
どうやら祐が相手の男子生徒の恋人と懇意になったことが原因らしい。相手は否定しているようだが、多分に苦し紛れと言ったトーン。
「何度も言っているけれど、あの娘とは何もないよ。食事に誘われただけ。断ったしね」
「だから関係ねえって言ってんだろう!」
相手の男子生徒はどうやらかなりお冠のようだ。
「俺達は実地でお前に手加減されたのが気にいらねえんだよ」
言って、もう一人の男子生徒に裏づけを取る。そうだよな、と強い口調に、もう一人の気の弱そうな男子生徒はうんと小さく返した。どうやら彼の個人的な怨恨に大義をつける口実のために連れてこられたらしい。仁の頭の中は、それにしても中学生は実地の授業などあるのかという驚きと、もう一人の男子生徒はこの寒い中言質を取られるためだけに駆り出されて可哀想だということだけ。
「手加減しないと、君たちは病院で年を越すことになるからね」
厳然たる事実をさらりと。
「てめえ!」
男子生徒が祐の襟首を掴む。穏やかではない。仁は迷った挙句、止めに入ることにした。
「やめろ」
仁の声には迷いがなお残る。それでも第三者の声に心臓を鷲掴みにされたような男子生徒二人は、弾かれたように振り返った。振り返って仁を見とめるやいなや顔を硬直させる。まるで死神にでも出くわしたように恐怖だけを浮かべる。学園の生徒で仁を知らない者はいない。
「たけちゃん、まずいよ」
もう一人の少年の怯えきった声。この少年には同情こそすれ、危害を加えるつもりはない仁であったから少し心外である。たけちゃんと呼ばれた、激高していた少年は苦い顔をして、祐の襟から手を離した。そのまま振り返らずに、木立の中へと消えていく。お付きの少年もその後を慌てて追っていった。
「まさか介入してくるとはね……」
祐は当然仁の存在には気付いていた。
「……余計なことをしたかな?」
仁には祐の言葉の裏にどんな感情が潜んでいて、また自分がした行動が常識的に見ても正しいのかどうか判断しかねていた。まさしく余計なこと、非常識なお節介で、祐もまたそのように鬱陶しく思っているのではないだろうか、と。しかし祐は薄く笑んだ。仁が見たこともない優しい顔だった。
「いや…… 助かった。僕も穏便に済ましたかったから」
「……」
仁はこのとき黙って立ち去るなりするべきだった。少なくとも蒸し返すべきではなかった。
「君はその…… 上手くいっていないのか?」
「何が?」
祐の顔からは微笑が消えた。
「あの男の子の恋人にちょっかいをかけられて……」
「こそこそ盗み聞きしてたんだろう? 僕は何もしちゃいない」
いつも仁が聞く冷たい声音がそこにあった。仁は今更になって己の軽率を理解した。
「僕が感謝したのは、純粋に困っているところを手助けしてもらったからに過ぎない。なるほど…… アンタはそれが僕だったから助けたわけか。父親面か? それとも恩でも売ろうってか?」
まさしく仁の奥底に巣食う卑しさを抉っていた。図星なのだ。祐は軽蔑の念をこめた目を向けて、最後に言い放った。
「僕の対人関係に首を突っ込んで説教でも垂れる気か? アンタにそんな資格があるのか?」
答えが返ってくるとも思っていない。仁に返す言葉があるわけがない。祐は仁と目を合わさず、その横を通り過ぎていった。