第三章 第百二十四話:祈念
今、奈々華は胸を押さえていた。どうにもならない程の恋情が、体の中から飛び出そうとして、心臓を、胸を、押し潰そうとしているのだ。仁は再び眠ってしまった。今ならば何をしてもバレるようなことはない。いつものようにキスをすればいい。それが出来ずにいた。兄の優しさを直近にうけて、その背徳が許されないことだと理解していた。すやすやと眠る青年の横顔。
別に整っているというわけでもない。それでも優しい顔を、眠たげな瞳を、時折緩む唇は、自分が最も欲しい言葉を、大切な言葉を、優しく囁いてくれる。たった一人の想い人。
花火に例えるなら、長く燃え続ける線香花火だと思っていた。それが今、激しく燃え盛る打ち上げ花火のようにこの身を熱くさせる。十年来続く初恋は、今、抗いようのない刹那の恋に近かった。
「参ったなあ…… これ以上好きになれないと思ってたのに」
違う顔を見せる自分。もうわかる。この衝動が終われば、きっとまた一段とこの人を好きになっているのだ。より胸の深くで焦がれるのだ。いくつもの狂おしい夜を越えて、想いを強固にしてきた。これは通過儀礼。
「ねえ…… お兄ちゃん。責任とってね?」
仰向けに眠る仁は、さっきから鼾をかいている。よほど疲れていたのだろう。奈々華はその隣に身を預け、布団を被りなおす。隣で聞こえる間抜けな音。また仁が腹をぼりぼりと掻く音がそれに重なる。急に笑いがこみ上げてきた。
「悩んでたのがバカみたい」
何も悩む必要なんかなかった。自分が好きになった人はそんなに薄情な人間だったのか。そんなはずがなかった。もっと早く気付くべきだった。許されないかもしれない。自分を嫌って、他の誰かに一番依存するかもしれない。そんな思いは全ては杞憂だったのだ。仁は自分を一番に考えていてくれた。あまつさえ、裏切った自分に申し訳ないとさえ思っていた。同居を許したのも、街への同伴の約束を交わしたのも、彼の仲直りのサイン。自分と同じように、悩みながら、再び近づく機を待っていたのだ。彼もまた以前の兄妹の姿を求めていた。
だからもっと早くに、自分の思いの丈をぶつけてやれば良かったのだ。許しあえたのだ。
彼と自分は再び以前の兄妹を完全に取り戻した。半分。自分の目的まであと半分。スタートラインに立ったに過ぎないのかもしれない。だけどこれからまた恋人に向けて努力を重ねるのだ。大丈夫。確実に二人の仲は密になっていっているのだから。
ゆっくりと仁の唇に指を這わせる。唇を重ね合わせられないのは残念だが、いつか起きている間にどちらからともなく、そう出来るように……
奈々華は誰にともなく、祈った。神を信じているわけではない。それは宣誓。これを破ることは決してないのだが、仮に破った時には、二度と赦されない、自分に対する裏切り行為。だから、いかなる困難が待ち受けようともこの兄と共にあり続けるという強い信念を再確認する作業なのだった。
第三章 贖罪のゆくえと白の祈り 了