第三章 第百二十三話:変な匂い
「あとは私がやります」
礼を述べた後、奈々華はそう言ってのけた。タンカに乗った仁をベッドの上に移したら、もう坂城はお払い箱。邪魔の一言に尽きる。
「いや、私も何かしてやりたい」
「何もありませんよ? 学園長さんのお手を煩わせるようなことは」
敵意もあらわ。坂城は、奈々華が仁に対して恋心を抱いているという話しを信じるに値するものとして捉え始めていた。
「しかし…… 体を拭いたり」
「私がやります」
「君一人に任せるのは……」
食い下がる坂城、取り付く島もない奈々華。
「寝ているお兄ちゃんは、雨に濡れた野良犬みたいな匂いがしますよ?」
「え…… か、構わない」
「硫黄が腐ったような匂いのすかしっ屁も時折しますよ?」
「……」
「とにかく大丈夫ですから」
奈々華の強硬な姿勢に、坂城はすんなり引き下がってしまった。
「何をやっているの!」
押し殺したような声ではあるが、怒声に変わりない。不甲斐ない妹を、姉は許さない。折角今回は妹に良い所を譲ったというのに。その間、ミルフィリアは庭の死体を処理していたのだった。
「だって…… 滅茶苦茶怖いですよ」
坂城はイジメられた仔犬のような声。
「そんな押しの弱いことでどうするの!」
押し退けてでも、後で恩義を感じてもらえるようなことをするのが目的だ。いささか強引で卑怯な手ではあるが、勝てば官軍。弱味につけこむような真似をしてでも、相手に好印象を抱かせればそれでいいのだ。
「全く……」
怒ってはみても、しょんぼりしている妹はやはり可愛い。残念に思っているのは彼女も同じ。押しが弱いのも短所であると同時に、遠慮深いという長所でもあるのだ。彼女の髪を撫で付けながら、ミルフィリアはそんなことを思っていた。
見事坂城を撃退した奈々華は、仁の服をゆっくりと脱がせる。上半身は鍛え抜かれた数年前より幾分脂肪がついてはいるが、十分に戦いに身を置くものの体だった。シャツをひん剥かれても呻き声一つ立てない仁は本当に深い眠りについているのだった。奈々華は火照った顔を冷えた両手の平で包む。
「……傷はもう治ってるね」
鼓動の音を誤魔化すように独り言。時刻は深夜二時を回って、シャルロットもアイシアも二段ベッドの上の段。お湯の入ったタライにまっさらなタオルをつける。水を吸って重たくなったそれを絞り、徐に血のついた兄の腹に当てる。擦ると赤い色がタオルのそこかしこに付いた。
「ゴメンね」
コレは自分のせい。腹を、顔を、擦る手は緩めずに、奈々華は心の中を探ってみる。本当に自分は兄の役に立ちたいという一心だったのだろうか。焦燥はなかっただろうか。戦闘で役に立たない自分の存在意義が、仁の中で小さくなりやしないかという恐怖。嫉妬はなかっただろうか。肩を並べて戦場に立てる少女達が、仁の中で大きくなりやしないかという危惧。三年前のことを思うと、世界が終わるような孤独を思うと……
「……奈々ちゃん?」
知らず流れていた涙を、冷たい手が拭った。弾かれるように顔を上げた奈々華は、自分を不思議そうに見る兄の顔をとらえた。
「お兄ちゃん……」
「体を拭いてくれてたのか…… ありがとう」
そう言って笑みを浮かべる。奈々華は胸が詰まりそうになって、涙を止められなかった。
「どうして泣いてるんだ?」
仁の顔が翳るのを、奈々華は滲んだ視界で確認していた。
「……お兄ちゃん。ゴメンね」
「それはもういいって」
「そうじゃないの…… 三年前のこと」
禁句のように蒸し返さずに来た兄妹の遺恨。奈々華はそれを良しとはしていなかった。仁が口にしないのをいいことにそれに甘えていた。
「……もういいんだよ。もう」
述懐を、謝罪を口にしようとした奈々華はそれを遮った兄の顔を、天使を見るような目で見ていた。
「なっちゃんにも迷惑をかけた。謝りたいのはこっちだよ」
「そんなこと!」
「でもお前もお前で苦しんでいた。俺に申し訳ないと思っていたんだな」
「……当たり前だよ」
救いを求めた手を振り払った自分は、妹として傍にいる資格さえもないと思った。
「だからさ…… おあいこだ」
すうっと伸ばされた手は、また奈々華の頬を伝う涙を拭った。
「それにまた俺とお前は兄妹になったんだ…… それでいいじゃないか」
諭すように、宥めすかすように。奈々華は世界で一番優しい言葉だと思った。