第三章 第百二十二話:傍観者達の気持ち
祐はその場を後にして、一人校舎の中に消えていった。
「わかんねえよ」
今でも憎しみは消えない。それでも同時に同情もあるのだ。苦しむ少女を一人で片付けたのは、彼の自分達への思いやり以外のなにものでもなかった。自分の父もまたそのように殺したのだ。直接手を下さずにもいられた筈なのに、苦しむ時間を無にした。それもまた彼の辛い優しさがそうさせたのだ。
「守ったのか……」
そう。守った。彼が愛すべき人間を。命に優劣をつけるのは当たり前だ。誰だって自分が大切に思う人と、見知らぬ人間とではどちらを優先するかは決まりきっている。自分自身も父のためなら、母のためなら、たとえ他人の命を奪ってでも生きていて欲しいと願う。だからこそ父の仕事を知りながらそれに口を出さなかった。
「僕も含まれているのか?」
祐の独り言は冷たい校舎の岩の壁に吸い込まれるだけだった。
「くそ! 祐のヤツ」
風で運べれば非常に楽だった。いや、坂城の中に楽をしたいという気持ちはなかった。ただ一刻も早く仁を安静な場所で休ませてやりたかった。あの後、仁は力尽きるように倒れた。疲労困憊した体をおして、駆けつけた先でまた死闘を繰り広げて倒れた。
「嘆いても仕方ないでしょう。早く運んであげましょう」
タンカの足側を持つミルフィリアが努めて冷静な声音で言う。皆仁のために何かをしたかった。何かせずには居れなかった。安らかな寝息を聞いているのだから彼はただ疲れて眠っているだけだとわかっていながらも。奈々華は血と泥にまみれた仁の体を拭いてやる準備と、布団の準備をしに、先に部屋に戻っていた。
「どうして君はいつも…… 辛い役を買って出る?」
仁は運び手にどれほど揺さぶられても起きる気配はない。体が半強制的に休息を取っているのだ。だから坂城の問いかけに答えられるのは、ミルフィリアただ一人。
「私達の手を汚させないためよ」
ミルフィリアは自分が近藤の話をしたからかとも思ったが、そうではないと結論付けていた。多分何も知らないでも結局彼はそうした。
「バカなのよ。自己犠牲でしか好意を表現できない」
本当にバカ、と付け足す。だがいくら罵っても、タンカを運ぶ足は緩まらない。緩まるどころか、一層早く動く。そのバカを寝床で休ませてやりたいのだから、二人もまたバカみたいに急いでいるのだ。階段に差し掛かる。どちらが掛け声をかけるわけでもないのに、二人はもたつくこともなく一段一段、確実に上って行く。
「お姉様は…… コイツをどう思っているのですか?」
突然坂城が話しを変えた。疲れた戦士を気遣っていたかと思えば、色恋の話。そんな場合ではない、と叱りつけようとしたミルフィリアは妹の顔が恐ろしく真剣なのを見てやめた。
「……憎からずは思っているわ。彼には多大な恩もあるしね」
仁が呑気に腹の辺りを掻いた。それがまた少し愛らしくて二人の顔が同時に綻ぶ。
「まあ、貴方ほどは焦がれてはいないけれど……」
「え?」
「寝言でよく、彼の名を呼んでいるわよ?」
ミルフィリアは坂城と同じ部屋に居住していた。学園は教師達専用の寮を丘の近くに持つが、気心の知れた二人が別々に暮らすのも野暮という次第。坂城の顔は火でも噴出すのではないかというほどに真っ赤になる。向かい合ってタンカを運ぶミルフィリアは妹の百面相を堪能していた。
「仁。頼む…… 私を」
「や、や、やめてください!!」
寝言を反芻してみせるミルフィリアは心底愉快という顔。坂城が慌ててとめても、舌を出して笑っている。普段の凛とした振る舞いも、姉の前では形無しだ。ミルフィリアは軽薄な笑みを浮かべたまま、階段の一番上の段に足をかける。
「まあ、何にせよ……」
二人は廊下を進み始める。進行方向に背を向けるミルフィリアは、早足の合間で、器用に廊下の先を振り返った。
「手強い敵がいるのは間違いないわね」
「……奈々華は本当に?」
坂城は未だ半信半疑。確かに仲のいい兄妹ではあるが。
「……もうすぐよ」
あっという間に廊下を横切った姉妹は、仁の部屋の前でその快速をとめた。