第三章 第百二十話:遅参のヒーロー
「水よ、我等に生命と叡智を与えたもう大いなる自然の恵みよ。今一度静かなる怒りを、猛威に込めて解き放て!!」
台風の後の増水した川もかくや、恐ろしいほどの水量がエリシアの身体を押し流す。そのまま木に叩きつけられれば如何に虎の強固な身体を手にした彼女でもただではすまないはずだ。
虎が獰猛な笑みを浮かべる。前方からの圧力をものともせず、強く後ろ足を踏ん張ると、そのまま上空へと跳び上がる。
「な……」
ミルフィリアの驚愕の表情の後ろ、詠唱を終えた坂城の手から氷の刃が切っ先を虎に向けて飛びかかる。滞空しているのなら好都合。逃げ道はない。坂城の顔が勝利の確信に綻ぶ。
キーンという金属がぶつかりあったような鋭い音が二度、三度。氷は全て、滞空中の虎の爪に弾かれた。動体視力も人間のそれとは格段に違った。
虎が坂城のそれとは比べ物にならないくらい残酷な勝利の笑みを浮かべる。傷は一時的に塞がっているようだが、それ以上に素早く回る全身の壊死に抗いながら戦う少女の笑顔。目の前の少女二人を巻き添えにせずには、死んでも死に切れないのだ。エリシアが地面に降り立ったとき、既に水流は跡形もなく消え去っていた。その脚力を前にして、彼女と肉弾戦を繰り広げられるような精霊を持たない少女二人は脳裏に鮮明な自身の死をイメージした。魔法の詠唱も間に合うはずがない。
「そこまでだ」
青年の低い声。突進を始めかけた虎の膂力を受け止め、正確に牙と爪を刀で防御してその場に仁王立つ。ミルフィリアも坂城もその背をよく知っている。二人の傍に見知った顔が遅れて降り立った。祐、奈々華。
「……遅くなったな」
背中越しにかけられる優しさが、やっと二人の少女の心を死のイメージから解き放った。虎の足が枯れた芝に深く食い込む。仁はそれでも動かない。これ以上は何人たりとも進ませはしないのだ。自分が守るべき者達の下へは何があっても行かせない。困憊した身体に鞭打つ仁もまた、エリシアに負けず劣らず鬼のような形相をしていた。お互いに譲れないもの。仁は守るべきものの為に、エリシアは恩義に報いる為に。命を賭してでも成し遂げなければならないものがあるのだ。
「よう…… 二本足で立てるようになったのかい?」
「てめえこそ…… よくその体で立てるもんだな?」
互いの軽口は、押し込める力と押し返す力が拮抗する合間。
祐の全身が光る。坂城もミルフィリアも。それを背で感じた仁は怒声を上げた。
「やめろ! コイツは俺が殺す!」
坂城もミルフィリアも祐も、仁のそんな声は聞いたことがなかった。一瞬にして詠唱は止み、皆一様に困惑していた。奈々華だけはその真意を正しく理解していた。殺すなんて剣呑な言葉を使ったのは、文字通り殺すからだ。殺さずして少女が止まることはないと知ったからだ。そしてその覚悟に敵ながら敬意を抱いたからこそ、彼一人でケリをつける。
激しい音を立てて、刀が爪を弾き返した。虎の体が揺れる。