第一章 第十二話:ドラゴンスレイヤー
竜が一際大きな鳴き声を上げた。苦痛と、それを自分に与えた者への猛々しい怒りがこもっている。ぎゃあああ、と言う周囲の人間の鼓膜を破らんばかりの怒声に、仁は顔を顰めた。
竜の翼には背中側には鱗があるものの、腹の側は柔らかそうな皮があるだけ。仁は背後から翼の下に潜り込むと、その部分を村雲を振るって斬り上げた。赤い皮膚から、赤い血液が滴る。
芝生が塗料でも塗ったように赤く染まった。
「おうおう、お怒りですね」
竜が仁の姿を見つけると、尖った牙の生え揃った口を開き、炎の息を吐いた。大道芸で見るよりも遙かに高温で、長く連なった炎の河。仁は涼しい顔でそれを数歩横にそれただけでかわす。最小限の動き。
仁が先程までいたあたりの芝生は燃えカス一つ残さず、後には焦土が見えるだけ。
奈々華は落ち着きなく、教室の窓から中庭の様子を見ていた。
仁が闘っている。自分の体の何十倍もある巨大な竜に果敢に立ち向かっている。
「奈々華ちゃん! ダメだよ!」
辛抱たまらず階下に向かおうと、踵を返した奈々華を目黒が止めた。腕を掴んで離そうとしない。
「でも!」
「先生が言ってたでしょう? ここを動いちゃダメだって! それに……奈々華ちゃんが行ったところで」
奈々華は顔を俯かせて、大人しくなった。目黒の言うとおりだった。例え奈々華があの場にいたところで、何一つ仁の手助けは出来ない。どころか、きっと足を引っ張るだけだ。
「……私はまた、見てるしか出来ないんだね」
目黒が手を離した時には、奈々華は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「ちょっと本気を出そうか」
仁がそう言って、いつものような軽薄な笑みを浮かべると、立ち消えた…… ようにその場にいた人間には見えた。仁はただ移動しただけだった。人の能力の限界を超えた脚力。
仁が現れたのは、竜の翼の上。平均台のような狭さだが、器用にしっかりと立っている。
ガキン!
金属がぶつかり合うような嫌な音を立てて、竜の首の辺りの鱗が数枚剥げる。仁が再び尋常ならざる速さで斬りつけたのだった。今は竜の肩のあたりに悠然と立っている。
「ぎゃあああ」
竜の二度目の悲鳴。翼を動かし、飛び上がって仁を振り落とそうとするが、先程の翼への斬撃が効いているのか、その巨体は小さく宙に浮いただけで、すぐに地面に墜ちた。左の翼からの出血が加速して、再び芝生に赤い塗料を撒き散らした。
「何だ、ふがいない。村雲! 一発で決めろよ!」
仁の口調はあくまでも、友人をなじるようなトーン。竜の肩に乗っている男のそれとは思えない緊張感のなさだ。
次の瞬間、仁の目の色が変わる。軽薄な男から、捕食者へと変貌する。
腕を最大限体に引きつけたかと思うと、目にも留まらぬ速さでそれを伸ばした。
刀が突き刺さったのは、竜の首。先程の攻撃で鱗が剥げ落ち、剥き出しになった皮膚に、深々と刀が食い込んでいる。そして、それを一気に引き抜いた。
仁はひょいとジャンプして地面に降り立つと、刀を二、三度斜めに空を切らせた。
噴水の比ではない。竜の首からは真っ赤な鮮血が勢い良く噴出している。赤い雨と言った方がいい。それもゲリラ豪雨のように、ひっきりなしに空に吹き上げては地上に落ちてくる赤い雫。辺りの芝生には赤い水溜りが次々出来上がる。
竜が断末魔の悲鳴を上げながら、壊れたスプリンクラーのようにしっちゃかめっちゃか炎を吐きまくる。目には凄絶な憤怒を滲ませ、この世の全てを焼き尽くさないと気が済まない。暴君の最期だ。
炎は仁をかすりもせず、ただ芝生を焦がすだけ。自身の血で潤った芝生がジュッと音を立ててそこかしこで燃え盛る。
やがて竜は目に憎悪をたたえたまま、事切れる。ドスンと大きな音を立てて、首から地面に突っ込んだ。