第三章 第百十九話:互いの情
「兄妹愛を確かめあってるとこ悪いけど……」
第三の声に、仁は半身を素早く起こして首だけ振り返る。少年がゆっくりと廊下を歩いている。奈々華が立ち上がる。今仁は動くこともままならない。もしかすると、この少年はその隙を狙って父親の敵討ちをするつもりかもしれないという猜疑はどうしても拭えなかった。敵意を込めた目で睨む。
「何もしないよ。そいつを殺しても父さんは帰ってこない」
その言葉に裏はないようだった。祐が遂に仁の傍まで辿り着く。のろのろとした動きでその場に胡坐をかいた仁は祐を見上げる。
「白の魔術師が学園を襲うようだ」
淡々とした声。事実だけを伝える無機質な声。仁はそれを聞いても表情を強張らせるでもなく、笑うでもなく、感情の見えない目で声の主を見上げているだけだった。
「……どうする?」
今度は試すような口調だった。自分の体調を理由に断るような薄情者か、無理を押してでも仲間の下へ馳せるだけの気骨者か。仁は後者であった。祐が言い終わるが早いか、さっきまでの青白い顔などなかったかのように、力強く立ち上がる。祐は一瞬呆気に取られたような顔をする。
「連れて行ってくれ」
「お兄ちゃん!!」
いくら傷が塞がったとはいえ、全快には程遠い。あまりにも危険すぎる。仁が奈々華を振り返る。真剣な表情。場を弁えず、奈々華は見惚れそうになるが、慌てて頭を振って否定を重ねる。
「ダメだよ! まだ動くだけで精一杯でしょう?」
仁もまた首を横に振る。
「多分禁忌を使ってくるはずだ。ミリーと坂城だけじゃ危ない」
魔霊合撃。その恐ろしいまでの禁忌の力を仁は身を以って知っている。奈々華は顔を俯け、唇を噛みしめたまま。血が出るほど拳を強く握っていた。普段は妹の言うことを割かしよく聞く兄ではあったが、ここ一番ではテコでも動かない。やがて顔を上げた奈々華は強い決意を瞳に込めていた。
「……わかった。ただし私もついて行く」
それは絶対条件。これ以上の譲歩を今の彼女から引き出すのは不可能だった。いざとなったら、何があっても兄を守る。
「……わかった」
仁も了承する。今回のことで懲りたとかいうことだけでもなく、奈々華の強い意志を嫌というほど感じ取ったから。普段は兄の言うことを割かしよく聞く妹ではあったが、ここ一番ではテコでも動かない。
「祐君…… 風を頼む」
やや気圧されるように兄妹のやり取りを聞いていた祐は、気を取り直してゆっくり頷いた。少し笑っている。
途端に祐の体が緑色の光に包まれ、先刻起こった突風に引け劣らない強い空気の流れが生まれた。
「少し落ち着いたらどうなの?」
学園の中庭。さっきから坂城は同じ場所を行ったり来たり。テスト前日の学生のように、追い詰められた顔をして動き回っているのだ。
「ですが……」
坂城が足を止める。姉に対して反抗的にならないように注意しているような雰囲気があったが、それでも反駁だけは続ける。
「アイツは今闘っているのですよ?」
「大丈夫よ。奈々華さんもつけたし。余程のことがなければ彼は負けないわよ」
ミルフィリアは、普段の慇懃を崩す唯一の相手を宥める。坂城はなおも食い下がろうとして、姉のどこか憂いを帯びた笑みに口を閉ざした。
「心配していないと言えば嘘になるけれどね。信じてあげることも重要よ」
それは自分に言い聞かせるようでもあった。決めた心を再確認するような。いかな挟撃を受けても、白の魔術さえ防げれば、仁の実力を以ってすれば負けることは考えにくい。それほどにミルフィリアは彼を買っていた。しかし同時に勝負は何が起こるかわからない。万が一のことを考えないわけでもないのだ。その葛藤の狭間で、一番勝率の高い作戦を練り上げたのだから、もう後は上手くいくことを祈るしかない。
風を感じる。ミルフィリアも坂城も警戒を瞬時に纏い、その先を見る。何かが空に浮いている。物凄いスピードで中庭に向かっている。
白いワンピースは脇腹のあたりが赤黒く変色していた。もとは少女だったらしい。今はそのワンピースも所々裂け、白い体毛が生えた獣のような肌。顔は人の二倍ほどあろうか。虎のそれだった。金色の瞳にはこの世の全てを憎むような壮絶な色が浮かんでいる。口からは涎の付いた白磁の牙を覗かせる。
風が止んだ。ドスンと大きな音を立てて、獣人が中庭の土を踏みしめた。