第三章 第百十八話:治癒
「クソ! クソ! クソ!!」
エリシアの怒声。傷口に当てた手は白く発光している。夜の闇に光る明星のようでもあり、星の終わりの瞬きにも見えた。風に乗って運ばれた先は、人気のない裏路地。少女はそこで自身の傷の手当をしているのだった。しかし思わしくないのは誰の目にも明らか。傷口からは当然に、鮮血が湧き水のように溢れだしているばかり。白の魔術師の攻撃は、黒の魔術師にとっては脅威。それは逆も然り。闇の眷属である村雲の刀傷はそれだけで、全ての白の魔法を受け付けない呪詛の如く。
「……ですから、私が助力すると」
風を起こした張本人、緑の幹部である少女のどこまでも冷静な声。
「うるせえ。アイツは俺が仕留めるって決めてたんだよ!」
苛立ちは、確実に迫る死への恐怖の隠れ蓑でしかなかった。共同戦線を断ったのは、彼女の過剰な自信と、平内への妄信的な忠誠。普段は補助的な役割をこなす彼女が、黒魔術師相手では主力として扱われた。彼女にとってはこの上ない見せ場であった。
「とにかく、もう分かっていますね? 貴方にはあまり時間がありません」
ここまでくれば冷静を通り越して冷酷。エリシアは苦痛に歪んでいた顔を、無理矢理に不敵に笑わせた。見る者の背筋を寒くさせるような凄絶な表情だった。
「わかってるさ…… 最後にあの学園だけは道連れにしてやらあ」
幾重にも重ねた治癒魔法が効果を発揮し始めたのは、実に三十分以上経ってからだった。白の魔術師の魔法ないし精霊から受けた傷を癒す。それは並大抵のことではなく、ひとえに彼女の献身的なまでの強い想いと白の魔術師としての高い適性が成した業だった。最初の何回かは何の効力も見られないまま終わったが、奈々華の頭には諦めるなどという言葉は一度たりとも浮かばなかった。今にも泣きそうな顔で、それでも涙は零さず、唇を硬く引き結び、一心不乱に治癒魔法を仁の傷口へ当て続けた。
仁の苦しげな額から皺が消える。呼吸も整ってきた。第一傷口が塞がり始めた。四本の縦に走った傷は、身を抉り、赤い組織を見せていたが、次第に肌色を取り戻していく。
「お兄ちゃん……」
ゆっくりと仁が瞼を上げる。血を失ったせいで、いくらか白くなった顔ではあるが、はっきりと生命を感じ取れた。
「……大丈夫?」
間抜けな質問だとわかっていながら、奈々華にはそれ以外言葉が思いつかなかった。返事が返ってくるとは思っていなかった。
「……頭がくらくらする」
熱病のようなどこかふわふわした喋り方。
「……腹が痛い」
これだけ喋れれば今すぐどうこうなるということはなさそうだ。
「ごめんなさい」
仁の体調報告が終わると、奈々華は謝罪の言葉を口にした。仁は白い顔を奈々華に向けた。また弱々しく笑う。
「……奈々ちゃんが来てくれなかったら、俺はとっくに死んでたさ」
「でも……」
結局は奈々華を庇ったために、仁は傷を負った。仁がゆっくりと腹を撫で回した。捲り上げられたシャツの下、地肌を直に触ると、爪跡もわからないほどに癒えていた。傷があったあたりはまだほんのり赤いが、傷自体は完全に塞がっていた。そこから感じ取れるのは奈々華の必死の努力だけ。
「傷…… ふさがってんじゃん」
うん、と消え入るような奈々華の返事。それを誇ることもない。
「だったら、何も問題はないよ」
いくらか仁の顔にもピンクが差してきた。失われた血は、廊下のいたるところで赤黒く凝固を始めている。それでも大事には至らなかったことは彼の優しい笑顔が如実に現している。
「お前が痛い思いをするくらいなら、この方がずっといい」
「そんな……」
そんな自己犠牲はあまりに悲しい。強いた本人がかける言葉でもなかった。
「これは罰なのかもな。大人しく連れてくれば、いくらでも対処の仕様もあった」
最初から居るとわかっているのなら、それなりの戦い方も出来た。突然の闖入に場当たり的な対処をしなくても済んだだろう。だからこそミルフィリアも坂城も、奈々華の帯同を推したのだった。
「……」
仁が自分への気遣いからそうしなかったのだと、痛いほど理解している奈々華は、ただ黙って仁の髪を撫でた。