第三章 第百十七話:伏兵の想い
奈々華の体が、エリシアのそれと変わらない眩い光を放つ。しゃがみこんだ仁の前に進み出て、そのまま両手を敵に向けてかざした。
「……な、奈々華。どうして」
仁はその見慣れた背中に取り留めようもない言葉をかける。
エリシアが放つ魔法は白の大魔法<聖痕の調べ>。不浄の一切を消し去る。不浄の塊と言って差し支えない黒の魔術師にとっては脅威そのもの。かつての英雄中谷慎二をして、自分を倒すことの出来る魔法と言わしめた、白の魔術師の最高峰。仁が食らえばひとたまりもなかっただろう。
対して奈々華が行っているのは<カウンタースペル>。一切の魔法をその根源から断つ強制力。エリシアの大魔法と比べても何ら遜色がないほどに、高度で難しい魔法。奈々華は誰に教わったわけでもない。ただ仁を助けたい。仁を守りたい。その一心で、まさに無我夢中で本能的にそれを繰り出していた。それこそが彼女の才能だった。
互いの光が消え去る。後に残ったのは金髪碧眼の少女、顔には驚きだけが浮かぶ。仁のたった一人の妹、必死の形相。奈々華のたった一人の兄、事態を誰よりも素早く飲み込んでいる。虎、新たな敵を見据えて臨戦態勢を整えている。
瞬間、戦局は変わる。誰よりも早く動いた仁の刃が、少女に向かう。勿論、金色の髪をした方。奈々華の体の横をすり抜け、常人には回避も難しいほどの突き。少女の左の脇腹に刀の切っ先が刺さる。そこで少女は体を反転、深く食い込む予定の刀は少女の肉を抉り取るだけに終わった。血を噴出す脇腹を手で押さえて、少女がふらつく。指の間からボトリと肉片が落ちる。赤々としたそれは数センチ四方のマグロの刺身にでも見えた。その上へと、傷口からの鮮血が滴る。
「てめえ……」
痛みと憎悪に歪む顔。少女に呼応するように虎が前足を振り上げて飛び掛る。奈々華へと。
「奈々!」
恐ろしい反応速度で、仁が奈々華の腕を掴み、体を思い切り引っ張った。よろける暇もなく、奈々華の体は仁の傍らに後ろ向きに倒れる。キャッと短い悲鳴。仁と奈々華の立ち位置がそっくり入れ替わった格好。
仁の腹が虎の牙に引き裂かれる。寸でのところで致命傷を受けなかったのはさすがと言うべきか。それでも先程のエリシアと同じく、血飛沫を伴って小さな肉片が床に散る。虎は攻撃をやめない。第二陣。強烈な刃となった爪が振り下ろされる。それを仁が村雲で受ける。鋭い金属音。
「お兄ちゃん!」
起き上がった奈々華は仁の腹から滴る血を見て、まるで自分の血が失われたように血相を変えて叫ぶ。
仁がそれに答えようとした瞬間、手を打ち合わせたような音。パンと乾いた音がエリシアの背後から聞こえた。その音がするまで奈々華も仁も、一切そこに人がいるなどと気付かなかった。それもそのはず。新たに現れた少女はまさしく今現れたのだから。顔立ちは日本人のそれ。眠たげな目と細い輪郭。手入れされていないのだろうか、鈍く蛍光灯の光を照り返す傷んだ黒髪は腰のあたりまである。サイズの合わない鼠色のパーカーと、緑のダボついたカーゴパンツが、彼女全体の雰囲気を戦場に似つかわしくないものにしていた。
「終わりです…… エリシア」
いきなり現れた少女は落ち着いた声で言った。エリシアのほうは唇を噛んで、僅かにその言葉に頷いた。次の瞬間、突如台風でも来たような強風が吹き荒れる。思わず目を瞑った奈々華。
突風が収まると、少女二人も虎も居なくなっていた。残されたのは仁と奈々華。目まぐるしく変わる戦局に奈々華は混乱を隠せず、キョロキョロと辺りを見回す。敵の姿を探す。しかし最早廊下には人の気配は彼女等二人のもの以外なく、嘘のような静けさがあるだけだった。蛍光灯がジーッと地虫のような音を立てている。
「……退いたみたいだね」
仁が多分に無理をして声を出す。その間にも腹の傷からは絶えず血が流れていた。奈々華はそこでやっとこさ仁の負傷に気が回る。
「お、お兄ちゃん! 今治すね!」
そこまでを聞いた仁は、ゆっくりと体を廊下の床に預けた。