第三章 第百十四話:開戦
そして夜が来た。
雪こそ降ってはいないものの、夜は厳しい寒さで、吐く息もタバコの紫煙と区別がつかないほどに白く大きい。奈々華は置いてきた。仁に後顧の憂いはないはずだ。しかし彼の表情は冴えない。この寒さのせいではなく、人を殺さずには帰っては来れないだろうという憂鬱がそうさせていた。
「ここか?」
仁の前には古びたビジネスホテルがあった。打ちっぱなしのコンクリートの外壁。入り口の近くには植木鉢が幾つかあったが、植えられている植物はどれもこれも茶色い葉を見せて枯れていた。その入り口は小さく狭く、学生アパートの管理人窓口と言った方がしっくりくるような、粗末な受付が外から見えた。ガラス戸の向こうには小部屋があるが、人はいないようだ。
「本当にこんなチンケなとこにフロイラインの幹部様が泊まってんのか?」
二時間以上歩きとおしたせいで、張ったふくらはぎの辺りを撫でながら仁が笑う。腰にささった村雲は答えない。
「何だ? 最近誰も俺の軽口に付き合ってくれないな」
「居りますな。しかし一人か……」
村雲が静かに言うと、仁は大袈裟に目を見開いて見せた。
「お前そんなことわかるのか?」
魔力探知は青、人物そのものの気配は緑。どちらにせよ、黒の精霊が得意とする分野ではないはずだ。
「気付かれませんか? 強烈な殺気を放っておるではないですか」
さも気付かない仁が悪いかの言い様。仁は手の平を天にかざして、わかりませんのポーズ。
「まあいいや。とにかく居るんだろう? 行くぞ」
ホテルの内装もまた質素なもので、入り口から入って右に曲がるとすぐに古びた廊下が仁を迎える。青いマットは敷かれているが、足の裏から伝わる感触はその下のコンクリートを容易にとらえていた。廊下には所狭しと各部屋へのドアがあり、一階あたり二十部屋くらいありそうだ。扉も鉄製の味気ないもの。廊下の向こう側には窪んだ空間があって、その中は階段になっているようだ。
「ひょっとすると、フロイラインてのは貧乏なのかな」
帰ってくるとも思っていない疑問をぶつけて、仁は村雲の指示にあった二階へと歩を進める。全部で三階建てのようだが、どれほど利用客がいるのかもわからない。
「近藤さんも利用してたのかな?」
「主…… 油断なさらぬよう」
村雲の忠告は、開戦の合図と変わった。二階の廊下へと足を踏み入れた仁は、左手にまばゆい光を感じ、咄嗟、階段のある空間へとバックステップする。すぐ目の前を閃光が弾丸のように過ぎ去り、右手へと消えていく。敵の攻撃だと悟った仁は、油断なく階段の小部屋に身体をつけ、顔だけを僅かに廊下側に出した。廊下の中ほど、蛍光灯の光を浴びて、金色の髪が映える少女が立っていた。青い目はそれだけで日本人ではないと推察できる。仁の横顔を捉えて、ピンク色の艶っぽい唇が醜く歪んだ。季節はずれな白いワンピースを着ている。白の幹部だからというわけでもないだろうが。
「出て来いよ」
挑発的な言葉。仁は触発されるでもなく、ゆっくりと廊下に身を出す。にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべた少女と仁との距離は十メートル前後。向き合って、仁は先程までの軽口ばかり叩いていた軽薄な顔から、戦士の顔。油断なく相手の全身に目を配っている。僅かな詠唱、攻撃の素振りをも見逃さないという構え。
「俺はフロイライン白の幹部、聖女エリシア・ロックハインだ。てめえを屠る者でもある」
聖女とは名ばかり。口汚い挑発を重ねる少女を視界におさめたまま、ゆっくりと仁が腰の相棒を抜き放った。