第三章 第百十二話:後悔
一人、拳を握り締めながら、帰路を辿った。無性に腹が立っていた。どうして兄は迎えに来ないのか。自分がこんなにも苦しんでいるのに。自分がこんなにも愛おしんでいるのに。顔も見せない。愛していると囁いてもくれない。もとはと言えば、倉橋をあんな風に変えたのは、仁じゃないか。このときにはまだ彼女に一縷の未練があった。情けない。女々しい。
帰宅すると、仁が居間にいた。居るくせに自分を迎えにも来なかった。彼は丁度、警察から帰ったところだった。抜け殻のような虚ろな目ではなかった。奈々華を見つけた仁は、希望の光をその目に宿したように見えた。最後の希望を。自分へと伸ばされる手。腹が立った。自分勝手だと思った。浅ましいとさえ思った。何を期待しているの。バカじゃないの。今まで私のことなんかそっちのけで、放心していたくせに。おかげで私は……
手を振り払った。自分の肩に触れるか、触れないかの辺りで。パシッと鋭い音が部屋にこだまする。
「触らないでよ!!」
気がつくと怒りに任せてそんな言葉を吐いていた。
今でも忘れない。決して忘れることは出来ない。兄の顔。呆然とした顔。それが深い悲しみに代わり、全てを諦めた顔に変わり、やがて俯いた。スローモーションのように再生できる。途端、激しい痛みが胸に走った。仁は俯いたまま、「ごめん」と消え入りそうな声で言った。走り出していた。階段を一瞬で駆け上がり、自分の部屋の戸を乱暴に引き開けた。逃げた。
布団を顔までかぶると、この世の全てから隔絶されたような気持ちになった。それが心地良いのか、恐ろしいのか、もうわからなかった。ただどんどん冷静になっていった。早く謝らなきゃ。求め続けた手じゃないか。
でもどうやって? 謝るの? 私が悪いの?
エミちゃんはもう友達じゃないんだよ? お兄ちゃんのせいなんだよ?
どうすればいいの?
私は気付くべきだった。本当に大切な存在に。逆境を共に越えない友など、友とも呼べない。何の価値もない。苦しみの果てに居てなお、自分を必要としてくれる想い人は、まさしく自分の愛した人だ。全てを投げ打ってでも赦す価値がある。
しばらくの後逃げるように転校した。離れた地域に逃げ込んだ私は後ろ指を指されるようなこともなく、平穏に暮らせた。もともと未成年が犯した過失。大々的にニュースになるようなこともなく、その地でそれを知る者は一人としていなかった。
兄妹の絆は失われた。仁のよそよそしい態度。苦しみを噛み殺して笑う、他人に見せる笑顔。逃げるように会話を切る、取ってつけたような愛想笑い。私はようやく気付いた。失ってはならないものを失ってしまったのだと。そのときには全てが遅かった。学校の送り迎えは自然消滅的になくなり、一切仁のほうからは口をきかなくなった。料理も食べなくなった。作らなくていいと言われた。洗濯も自分の分は自分でするようになった。部屋にも鍵がかかるようになった。生活時間帯も噛み合わなくなった。昼は寝ており、夜は外出する。何をしているのかもわからない。どこにいるのかもわからない。彼にとって私は他人になった。
そんな日々が続いた。




