第三章 第百十話:自転車と花
午前中は決戦前の最後のモラトリアム。仁は奈々華も誘ったが、ベッドの上で不貞寝を決め込む彼女から返答はなかった。仁は黙って部屋を辞した。一人で街に下りるのはいつ以来だろうと、努めて奈々華のことを考えないようにしていた。彼女の言い分も分かる。だが、それ以上に仁は奈々華に危険な目に遭ってほしくはなかった。例え自分が傷ついても、彼女さえ無事なら……
久しく触れていなかった外気は、昼間だというのに、身を切るように仁の体温を奪いにかかっていた。夜は雪が降るかもしれない。
「主は意外に不器用なのだな」
「……」
腰にさした覚えのない村雲の声。いつの間にやら。仁はそれでも嫌がるような素振りはなかった。決して歓迎もしていないが。
「お前が大切だと言ってやれば丸くおさまったのではないか?」
「どうかな……」
奈々華は意外に頑固なのだ。そう言えば、逆に付け入る隙を与えたのではないか。兄のことを最優先に考える少女に、彼女自身の危険を理由に説得にかかるのはあまり賢くないと、経験上理解していた。
「あのままでは、あまりに不憫であろう」
「……不憫でも何でも、あの子が無事ならそれでいい」
本心。仁の目は僅かに細められていた。優しい顔。兄の顔。奈々華が愛している顔。
自転車と花。さすがに都会だけあって何でも揃う。自転車など前時代の遺物とでも言わんばかりの扱いを受けていると思っていた仁は、存外簡単に手に入ったので、改めて自分がいた世界との共通性を見出す思いだった。いかに魔術の利便性に頼る世界といえど、魔術師以外が多数を占める社会。
花。その遅れた弔意に意味があるのか、自問しながらも、仁は赤い花弁をつけた彼岸花を買った。近藤には、あの赤く燃えるような生き様を見せた彼には、菊は似合わない。
仁は駅前の広場で足を休めていた。隅のほうにある自販機横に備え付けられた、簡易なプラスチックのベンチに腰をかけている。自転車はすぐ目の前にとめてある。落ち着いた色の車体は売れ筋らしく、仁の体格に合わせるという、二十八インチがベストだった、条件からも結構な出費となった。休日だというに京禮線は利用客が絶えず、駅の出入り口は大いに賑わっている。仁は身の振り方に困っていた。奈々華のいる部屋に帰ったところで口を利いてくれるか。かと言って他に行くアテもない。ギャンブルに興じる気分でもなかった。帰ろうと腰を上げた仁は、誰かの自分を呼ぶ声に顔を横に向けた。
「ジンさん!」
ヒメネスだ。駅のほうから出てきたということは、休日にどこかに遊びに行くのか。相変わらずの人懐っこい笑顔を振りまいて、仁の傍に駆け寄ってくる。
「何してる?」
「いや…… 自転車を買いに来てたんだ」
親指でくいっと、傷一つない真新しい自転車を指す。ヒメネスは不思議そうな顔をしていたが、やがてそれが通勤用のものだと気付いて、また笑った。
「言ってくれれば送り迎えするよ!」
子供のように手を挙げる。仁は少し人目を気にしたが、屈託のない笑顔を見ているうちに、気にならなくなった。彼は社交辞令を言うような人間ではない。付き合いは至極短いが、それくらいはわかっている。だから真っ直ぐに、自分を気遣っているのだとも。裏表のない純粋な好意。羨ましいくらいに。遠く昔に自分は失ったものを彼は持っている。曲解と猜疑に囚われることを知らない。目を輝かせて仁の自転車を撫で回すようにしている少年を見ていると、不意に小さい頃の奈々華を思い出した。小学生の時、始めて買ってやった自転車を、今の彼と同じように、宝物のように愛おしそうにしていた。くるくると自転車の周りを歩き回り、飽きたかと思うと跨ってみる。ありがとうと、あどけない笑顔を見せる彼女を。
ヒメネスは用事があると言って、去っていった。あっさりと去る様も、遠慮や体裁など気にしていないからなのかもしれない。