第三章 第百七話:献花
書類上の手続きだけで今日は開放された。仁は学園に戻っていた。職種柄、保険関係の書類が累々。署名と押印だけでも肩が凝る思いだった。ヒメネスが送ると言ったが、毎度甘えるわけにもいかないので、坂道をゆっくりと自分の足で上がっていた。歩くと恐らく勤務地から二時間強かかる。
「チャリだな」
歩くたびに口から漏れる白い息を見つめながらひたすらに歩く。ふと人の気配を感じてそこから目線を切った仁は、意外な人物の姿を捉えた。学園の生徒はこの時間帯は自由に動いてはいけないはずだったが、そんなことは仁にも彼にもどうでもよかった。
「やあ、先輩。勤務初日はどうだった?」
坂城あたりが伝えたのだろうか。祐はゆっくりとその場から立ち上がると、いつもよりどこか翳のある顔で仁に向かい合った。
「いや、今日はまだ書類の手続きとかで、本格的に働くのは明後日から」
早口に捲くし立てた。すっと視線を祐の顔から外す。
「そう……」
祐はくるりと踵を返して、先を歩んでいった。そこで、彼がその手に何か持っているのに始めて仁は気付いた。花だ。少ししなびた花が数本。夜目のきく仁には捉えられた。祐がしゃがみこんでいた場所を見る。今度は真新しい花が数本。白い花弁が夜の闇に負けじと瑞々しく咲き誇っている。
「そうか…… この場所は」
近藤が息を引き取った場所。ガードレールの向こう側、そこから数百メートルは離れている場所は、まだ戦いの爪跡は色濃く、草が生えきらない地面と、焦げて久しい朽木。ギチっと仁の奥歯が鳴った。
「俺は何の感慨もなく通り過ぎていたのか」
忘れたわけではない。なのに、花を供えることもしていなかった。遺体がないから。そんなことは何の言い訳になろうか。墓標はまさしく、標でしかない。そこに哀悼を捧げられないなら、ただの形骸。逆をかえせば、例え何もない空間であろうと、それを募らせれば、立派な墓となる。死者を弔う心こそが墓を墓にする。そんなこともわからず、五つも六つも歳の離れた少年に気付かされる。仁は一つ大きな溜息を吐き、家路を急いだ。
「ちょっとは元気出したらどうなんだい?」
シャルロットはどこか儚げな主を見上げていた。一人で帰ってくるなり、奈々華は心ここに在らず。
「……」
「ちょっと……」
もしかして聞こえていないのかとシャルロットはもう一度声をかけようとした。そこで奈々華の口が動いた。
「ねえ、私って何も出来ないのかな?」
奈々華の返答は、およそシャルロットの前言と噛み合っていなかった。しかし賢い猫は奈々華の心中をそれだけで少しは察した。
「お兄ちゃんの手助けなんて出来ないのかな?」
奈々華の目はどこか焦点の合わないまま、二段ベッドの下の段あたりに彷徨っていた。
「アイツが自分でどうにかしなきゃいけない問題なんじゃないのかい?」
そんな正論がこの少女の心を少しも落ち着けないのを知っていながら、シャルロットはそう言うしかなかった。奈々華がふっと顔を下に向け、コタツに半身を入れた飼い猫を見た。
「私はあの人の苦しみも代わってあげられない。戦闘で手助けすることも出来ない」
ならば償いの手助けをと、息巻いていたのだが、この有り様。
「自信なくしちゃいそう」
せめて茶化すように笑って言えば、シャルロットも慰めの言葉が出たのかもしれない。悲しげに寄せられた眉が見るものの心を締め付けるようだった。
「嫉妬しているのかい?」
戦闘で手助けの出来る坂城に。新たに加わったミルフィリアに。
「怒っているのかい?」
更にその二人は仁が本来奈々華にこそ語るべき彼の心中を聞いている。無遠慮に奈々華の立ち位置にまで侵食してくる新参者たち。奈々華は答えなかった。答える代わりにまた憂いを帯びた顔を上げ、見るともなく兄がいつも眠る場所に目を向けた。