第三章 第百一話:辿り着いた母性
海面は凪で、波の音は静かに、耳をこらさなければ聞こえないほどだった。夜半の海は光もなく、黒々とした、何か大きな生き物の体表のようで薄気味が悪い。ミルフィリアは夜明けくらいに着くことを想定していたらしく、何だか怖いですね、と苦笑した。
「落ちたら凍死するかな?」
仁は波止場から、下を覗き込んで言った。テトラポットの底のほうに、藻のようなものがびっしり絡みついていた。
「……私が引き上げます」
「……」
仁がゆっくりと体を戻した。
「貴方がそうしてくれたように、私もまた貴方の味方であります」
「……坂城にも言われたよ」
無機質な声だった。
「私達では役不足ですか?」
「そんなこと言っちゃいない」
ミルフィリアはブーツを踏み鳴らし、仁に背を向けた。
「私は貴方が居てくれてよかったと思いました」
「……何の話だよ?」
「父様と母様を…… 元に戻した日のことです」
仁から数メートル離れた場所でミルフィリアは立ち止まった。
「私は近藤に一度会ったことがあります」
仁の体がピクリと動いた。
「……さっきから何なんだ?」
「フロイラインは横の繋がりはほとんどありません。皆涼子から指示を受けて、それぞれの仕事をするだけの縦割りです」
仁は黙って聞くことにしたのか、その場に腰を下ろした。
「私が会った他の幹部は、彼と緑の少女だけです」
「……」
またコツコツと、座り込む仁の手前まで戻ってきた。
「会ってよかったと思います」
「……俺もだ」
小さく呟いた。
「とても強い人でした」
「そうだな」
自分なんか比べ物にならないくらい。一度決めたことなら、歯を食いしばってでもやるんだ。強い意志。折れない心。
「フロイラインはドイツ語で、令嬢という意味です」
「そうだな」
仁はドイツ語を大学で少し齧った。
「その名のとおり、女性たちを束ねた組織です」
「そうなのか」
「近藤だけが、特例で加入しました」
漁から戻ってきたのか、寄港するのか、小さな灯りが遠くに見えた。
「彼にどうして汚れ仕事を率先して請けるのか、聞きました」
「……」
「彼、なんて答えたと思います?」
何となく仁には近藤の答えがわかるような気がした。彼ならどう言うか。
「たまたまだよって」
「嘘だな」
ええ、と力なく笑ったミルフィリアはそのまま続けた。
「恐らく私達に回らないようにしていたんだと思います」
仁はどうしようもなく、目頭が熱くなるのを感じていた。あの人は、誰の感謝もなく、それでも思いやりを持っていた。そんなものが罪滅ぼしになるなんて、心を軽くするなんて、これっぽっちも思っていなかった筈だ。どうしてそう強くあれるんだ。かつての英雄の姿を重ねて、仁は自分の矮小さに打ちのめされるようだった。
「彼ほど強くなくても…… 三割に入っていなくても、救われる道はあります」
仁はミルフィリアの顔を見上げた。目には涙を溜めているその姿は、彼女よりも年上の男性にはとても見えなかった。
「私はそれを貴方に教えてもらいました」
「俺はそんなこと……」
「いいえ」
優しく、ゆっくりと、首を横に振った。
「自分ひとりで抱えきれないなら、誰かに背負ってもらえばいいのです」
しゃがみこんで、仁の顔を覗きこんだ。むくれている幼稚園児を慰める保母さんのようだった。
「こんな簡単なことに今まで気付けませんでした。いえ…… 忘れていたんです」
「それで本当に……」
「貴方ももう分かっているんでしょう? だから妹さんを頼っている」
「……」
「貴方が思うほど、女の子は弱くありません」
ミルフィリアは微笑んだ。
「貴方の妹さんも、遊庵も、私も、貴方が辛いときは傍にいます。話しくらいは聞いてあげられます」
「……」
「貴方は一人ではないのですよ」
気がつくと、仁は全てを話していた。祐の言葉に思い出した黒川のこと。奈々華には話せずにいたことを全て。ミルフィリアは時折、優しく相槌を打ちながらそれを聞いていた。