コインロッカー
「憤懣ここに極まれり」
「どしたん、急に」
興奮すると古めかしい言葉遣いが顔を出す梨宮さんは、いきなり土産と称してたわしを私に手渡しながら、今日も今日とて感情の高ぶりを隠せていないのである。梨宮さんはよく激昂するね――と指摘すれば決まって彼女は反論する。そんなことはない、私が感情を露わにするのは極まれなことだ、と。
「聞いてよ実乃梨! 苛々してたまらず、そのくせ気持ちのぶつけどころもない、本当にやるせないことがあったの! どの程度かというと券売機のお釣りで、100円硬貨が一枚ずつ排出されるのを待つ時間くらい、やりきれないことだよ」
やけに具体性を帯びた粘着質な例えが、梨宮さんの恨み辛みを代弁しているようだった。
「まじで。やば。――で、このたわしは」
「紀伊の名産品じゃないか。実乃梨にも一つやろう」
「あー、ね。旅行かぁ」
先週の金曜日、講義に顔を出さなかった理由が明らかになって、いささか私の心の霧が晴れた。
「もともと月曜は祝日だったからな。思い切って4連休にしたんだ。キャリーバッグに最低限の品だけ詰めて、秘湯を巡る一人旅。想像するだけでそそるものだろう?
実際とても気分が良かったが、目的地の駅舎で災難は起きた」
梨宮さんが形の良い眉を顰めると、つられて上瞼の睫毛がくいと僅かに持ち上がった。私の付け物と違って人工物に侵されていない、生来の美しさを奇跡的に残した睫毛。その長さがよりいっそう際立った。奥で煌めく薄茶色の宝石のような瞳はまるでお伽噺の可憐な姫君のようで、彼女を守る騎士が一斉に槍を構えたような、小さいながらも荘厳で圧倒的な光景だった。
「コインロッカーを利用しようとしたんだ。大小様々なスペースがあったが、キャリーバッグ用の一番大きいロッカーは100円硬貨6枚分だということだ。が、あいにく小銭は十分には持ち合わせていなかった。
お札ならあった。だから両替しようと思って周囲を見渡したが、それらしき機械はどこにもなかった! コインロッカーはあるのに、だ!」
「まじ。やばいね」
まあ秘湯と言うくらいだから、そういうこともあるだろう。
「仕方がなかったから、私は近くにあった自動販売機で千円札を崩すことにした。百数十円のお茶でも買えば、十全に小銭を得ることができる。
自販機にお札を二回押し返された後、私はお茶の『買う』ボタンを押した」
「ああ、古い機械だと読み取ってくれない、あれね」
「お釣りは律儀にも500円玉を混ぜて出てきた。両替機はないくせに、そこは気を利かせるのかと、少し腹立たしかった!」
「別にそこはよくない? 600円は集まったわけだし」
「違うのだ、実乃梨よ。コインロッカーの前に戻った私は衝撃の事実に気がついた。単に600円ではない。100円硬貨6枚が必要だったのだ。『100円玉以外は受け付けません』と小さな字で但し書きがしてあったのだ……」
「……」
「私の苦労はなんだったのだ! 飲みたくもないお茶を買わされただけだった。
ただ、捨てる神あれば拾う神あり。地獄に仏。見かねた駅員さんが両替してくれた。しかし、最初からそうしておけば良かったのに、という後悔は増すばかりだった」
「ま、まあ良かったじゃない。これで当初の目的は達成できたわけだし。ね?」
「いや、まだ話は終わりじゃない。100円玉をちまちま6回投入した私は、もはや憎い扉が開く音を聞いた。人を小馬鹿にするような軽い音だ。しかしこれで私は目的を果たせる。重たいキャリーバッグを預けて、軽い気持ちで散策を楽しむことができる」
自分自身が入れそうなキャリーケースを引きずる小柄な梨宮さんの姿は、容易に想像がついた。
「開いた空間にバッグを入れようとした私は、絶望的な事実を突きつけられた! そう。足りなかったのだ」
「なにが?」
「キャリーバッグは、一番大きいコインロッカーの棚に、わずかにはみ出す大きさだったのだ」
私が再び絶句したことは言うまでもない。
「駅員さんはすでに駅舎に戻っており、さすがに、クレームを付ける気にはなれなかった。私が悪いのだから。恥ずかしかったし……」
梨宮さんはその後、隙間を埋めるには心許ないお茶のペットボトルを特大ロッカーにぽつねんと残して、扉を閉めた。そして重いケースを引きずるように湯巡りへ出かけたという。