噓とエッセイ#7『お年玉』
生まれて初めてお年玉をあげることになった。相手は従兄の子供である。大晦日に尋ねたときには新幹線が変形するおもちゃで遊んでいた。クリスマスプレゼントにサンタさんからもらったのだそうだ。従兄は「お前にもこういう時があった」と言っていたが、記憶にない。三歳の頃を覚えている方が珍しいだろう。四半世紀も前のことははるか遠い。ここから国際宇宙ステーションぐらいに遠い。年を重ねていくにつれて、今この瞬間も地球から、月、木星、冥王星ほどに遠くなってしまうのだろうか。そう考えると寒気がしてくる。雪の降る屋外にも負けないくらい。
さて、ここでまず問題になるのがガワ、すなわちぽち袋である。中身を抜き出されたらゴミ箱に直行するとはいえ、第一印象は大切だ。たとえば、車に轢かれたカエルの死体が、堂々とプリントされたぽち袋だとどうなるか。その場でびりびりに破かれるどころか、異常者を見るような目を向けられてしまうだろう。やはりここは可愛らしくいきたい。さすれば好印象を与えることができ、なかなか懐いてくれない甥も、懐に分け入ってくれるだろう。
というわけでさっそく近所の雑貨店に行く。入ってすぐの分かりやすいところに、年賀状とセットで特設コーナーが展開され、ピンク、黄色、水色と色とりどりのぽち袋が並んでいる。水玉や若葉模様、来年の干支にちなんで虎柄にすべきか。いや、それではあまりに一般的過ぎる。お年玉とは渡す側のセンスが試される場でもあるのだ。無難にまとめてしまったら、会う度に「あっ、こんな人いたんだ」と思われる親戚になりかねない。既に片足を突っ込んでいるし、これ以上没個性になるのは避けなければ。
同じ理由で、二二世紀の猫型ロボットや嵐を呼ぶ五歳児、ボールに入れればポケットに入るモンスターなども却下だ。いつでもいいではないか。来年のお年玉は、来年しかないのだ。つまりは今しか販売されないぽち袋で勝負したい。デフォルメされた虎が目立つお年玉を渡す親戚に「こいつやるな」と思わせる。新年最初の優越感となるだろう。
では、今年しか手に入らないぽち袋。つまり今年の時事ぽち袋とは何になるだろうか。韓国発のデスゲーム? ダメだ。怪しいルックスに甥が泣いてしまう可能性がある。実写映画もヒットを飛ばしたヤンキー漫画? いや、いくら可愛らしくデフォルメされていても、三歳の子供にはまだ早いだろう。主人公が呪われるアニメ? 違う。ダークファンタジーの対象年齢はもっと上だ。
候補を一つずつ除外していって、残ったのは二つ。鬼を討伐する和風ファンタジーか、それともフェルトでできた動物形の車か。さて、どちらがいいだろう。だけれど、前者が流行ったのは、今年に限ったことではない。四〇〇億円を稼ぎ出した映画の公開自体は去年のことだ。主題歌を担当した歌手が、二年連続で紅白歌合戦に出場した事実もそれを物語っている。なにより去年、前者のぽち袋を用いた人間は全国で数万人はいただろう。ここは後者を選ぶべきだ。後者は生まれも育ちも二〇二一年。フォルムの可愛さも相まって、来年のぽち袋には最も適しているように思える。
私は五枚つづりになっているそれを選び、レジへと持っていった。店員は慣れているのか、それとも大みそかで早く帰りたい以外の感情を失っているのか、実に淡々と会計をしてくれた。「ありがとうございました」と言う姿は私と同じくらいか少し上の年齢に見える。彼も親戚の子供にお年玉をあげるのだろうか。もしかしたら自分の子供かもしれない。そう思うと二七歳にもなって、まだ独り身の自分が急に寂しく感じられた。なるべく考えないように実家まで自転車を漕ぐ。身を切るような寒風が、肌に当たって少し痛かった。
ぽち袋は用意できた。次の問題は中身。入れる金額だ。甥がどれだけお小遣いをもらっているか、私は知らない。もしかしたら生まれて初めて手にする現金かもしれない。金銭感覚を決定づけるかもしれないことを考えると責任は重大だ。
では、いくらにしようか。一〇〇円? いや、それではあまりにみみっちすぎる。三歳の子供とはいえ、人の器の大きさを判断することぐらいはできる。これ以上悪印象を持たれてたまるか。私だって最低賃金に毛が生えたくらいだけれど、ちゃんと仕事をして収入を得ているのだ。塵芥ほどのプライドもある。他の親戚がもっと高額なお年玉を渡す中で、一〇〇円だと格好がつかなさすぎる。年に一度のめでたい場だし、見栄を張るくらいはしたい。
ならば、一〇〇〇円にするか。だけれど、三歳の子供にとっては一〇〇〇円は、いささか高すぎるように思える。私にとっての一万円かそれ以上だ。それにお年玉は、今年限りのものではない。顔を合わせるたび、毎年渡さなければならないのだ。当然もらう側は、去年以上の金額を期待するだろう。そう考えると一〇〇〇円をスタートラインに設定したなら大変だ。早い段階で一万円という頭打ちを迎えてしまう。毎年一万円を捻出するのは、なかなかに懐が痛む。先を見据えれば、一〇〇〇円はベターな選択肢ではない。
となると、間を取って五〇〇円といったところか。多少しみったれた金額ではあるし、他の親戚と比べると少ないかもしれないが、私の懐具合を鑑みれば、これがちょうどいいだろう。それに三歳の子供が何千円を手にしたところで、使い切れないだろうし。
そう自分を納得させて財布を開く。小銭入れを確認したところで、しまった。五〇〇円玉がない。一〇〇円玉も千円札もあるけれど、五〇〇円玉だけがない。元々財布に一つしか席がない硬貨ではあるが、どうしたものか。近所のコンビニエンスストアで、適当に買い物をするか。だが、外は雪が降ってきたし、何より寒い。スマートフォンによると、気温は氷点下を下回っている。それにビールも飲んでしまったから歩くしかない。
複数の理由を勘案して、私が出した結論は面倒くさいだった。もう一〇〇〇円でいいだろう。多少手に余る金額だが、少ないよりは多い方が喜んでもらえる。私は財布から千円札を抜き出し、三つ折りにしてぽち袋に入れた。裏面に宛名を書いて、これで準備完了。あとは明日を待つだけだ。
紅白歌合戦を見て今年完結を迎えた人気アニメの寸劇に笑ったり、SNSで「#2021年映画ベスト10」を検索して、自分と被っている人の少なさに凹んだりしていると、いつの間にか新年を迎えていた。年越しの瞬間、テレビに映っていたのは地元の有名な寺社だった。家族と「あけましておめでとうございます」の挨拶を交わし、初夢も見ないまま朝を迎える。半分お手製、半分既製品のおせちを食べて、向かうは伯父の家だ。隣の市に住む従兄家族も帰省してきている。いよいよお年玉を渡す瞬間が近づいてきている。ぽち袋を握りながら窓の外を眺めていると、日付を跨いだだけで、世界が何もかもが変わってしまったように思えた。
玄関をくぐると、二人の子供が私を迎えた。私は知らなかったけれど、コロナ禍でなかなか会えない二年間の間に、従兄夫婦は第二子を出産していたのだ。きっと近い将来にはお年玉も二人分になるだろう。渡す金額が増えることが大人になるということなのかもしれない。「あけましておめでとうございます」の挨拶もそこそこに、仏壇に手を合わせた後は居間に入る。テレビでは新年最初の駅伝競走。去年の王者が苦戦しているらしかった。
何かを話すより先に、お年玉の時間はやってくる。まず父親が、未だ家で寝ている弟と二人分のお年玉を渡した。売り場で私が選ばなかった方のぽち袋だった。そして、私も「こちらをどうぞ」と言いながら、甥に両手でお年玉を渡した。もちろんとびきりの笑顔も忘れずに。甥は計算のまったくない笑みを浮かべて受け取った。すぐさま両親である従兄夫婦のもとを振り向いている。たとえ礼を言われることがなくても、私は満たされていた。飛行機の中から初日の出を眺めるような清々しい気分だった。
もしかしたら甥は私のことを、お金贈呈マシーンと認識しているのかもしれない。蜜の味を知った来年は、無言のうちにプレッシャーをかけられるかもしれない。だけれど、私はそれでもよかった。何かを人に与えることが、こんなにも嬉しく感じるだなんて。独り身の根無し草の私でも、健やかな家族関係、親戚関係に貢献できているようで、自己効力感を味わえた。
なるほど、お年玉というのはよくできたシステムだ。もらった方は当然嬉しいけれど、あげる方も同じかそれ以上に嬉しい。まさにwinーwinの関係だ。私の祖父は会う度にお小遣いだと言って、私にお金をくれたけれど、今ならその気持ちもわかる気がする。身内の子供が喜んでいる顔は、心のビタミンになるのだ。
大人になることは、辛く悲しいことだと思っていた。周囲が地位や家族といったかけがえのないものを手に入れる中で、何も手に入れられない自分が惨めたらしく感じていた。だけれど、今日だけは大人になるのも案外悪くないと思える。人生捨てたものではないと感じる。
気が早いが、今から来年のお年玉をあげる瞬間が楽しみだ。きっと甥は小学生になったら、クラスメイトと「お年玉いくらもらった?」という話をするのだろう。そのときに甥が引け目を感じないように、これからもそれ相応の金額をあげなければ。気分はすっかり親バカだ。もちろん懸念もある。成長するにしたがって徐々に金額は上がっていくだろうし、近い将来甥の弟の分もと考えると、負担は二倍だ。だけれど、今だけは達成感に酔わせてほしい。それが大変なことは明白な、二〇二二年を生きる糧となるのだから。
(完)