648-1839「具現化武装の戦乙女」
―― 1 ――
檻の中にいたのは、金髪の巻き毛が愛らしい、小柄なオキュペテの少女だった。だいぶ幼い個体のようだ。ひどく怯えている。赤く腫らした大きな目は、枯れるまで泣き続けた証だろう。
檻の中には、彼女だけのものとは思えない大量の羽根が落ちている。少女は『生き残り』というわけだ。
では、檻の前に横たわる、防護服に身を包んだ人物は誰なのか。オキュペテではないことは確かだ。不透明の防護マスクで頭部を覆い尽くしているので、容貌までは分からない。
さらに分からないのは、その人物の周りに置かれたものだ。
作物が山をなしている。枯れたもの、腐ったもの、新鮮なもの。まるで祭壇に捧げられた供物だ。
出処はあの農場だろう。だが、なんのために捧げられているのか。作物の状態を見る限り、収穫の度にここに置かれていると思える。
謎を解明すべく、ヴァニタスは屈み込んで調査を始めた。
「カルディエは、そのオキュペテの子を……僕は、この人を調べてみる。たぶん、死んでるとは思うけど」
手で触れた感じでは、中身が入っていることは確かだった。
胸が高まる。時と場所をわきまえろと自分を戒めるが、もしかしたら防護服の中には、旧世界の人類の遺骸が残されているかも知れないのだ。防護服で外気と隔絶された状態ならば、原型をとどめた死蝋化もありえるはず。好奇心を殺すには、対象の希少価値が高すぎる。
しかし、防護服の外し方が分からない。初めて見る旧世界の遺物なだけに、ヴァニタスにも知識外のテクノロジーであった。
そうこうするうちに、右の前腕部に小さなコンソールのようなものが備わっていることに気づく。
「これは……」
基本操作は自分が知るものと大差ないようだ。しかし稼働しない。動力が底をついている。はるか昔の遺物なのだから、それも当然であった。
試しに自分のタブレットと接続を試みる。機甲塔と作られた年代が同じものなのだから、機甲塔の電子機器にアクセスできるヴァニタスには、造作もないことだった。
内部データを探ると、単純なテキストファイルが見つかった。どうやら、この防護服の人物が記したもののようだ。旧世界で使用されていた一般的な公用語で書かれているが、タブレットにはぬかりなく翻訳機能も備わっている。
一体、どんな過去の記録が残されているのか。状況も忘れて目を爛々と輝かせる。
しかし、テキストを読み進めるうちに、ヴァニタスの表情は険しくなっていった。最後には、嫌悪感をもって防護服の人物を見下ろすほどまでに。
一瞬でも宝だと期待した自分が愚かであった。これは輝かしい過去の記録などではない。唾棄すべき、冒涜的なまでの狂妄に満ちた呪いの羅列だ。
「どした、ヴァニタス。おっかない顔して」
檻の格子を撫でながら、カルディエが心配そうに尋ねる。
「こいつだ」
ポツリと吐き捨てる。ヴァニタス自身でも驚くほど乾いた声だった。
「うん? なにが?」
「こいつが、あのヘカトンケイルを改造した」
「なんデスと……?」
「原因はわからないけど、こいつを含めた数百人が、ここに閉じこもったらしい。しばらくは保存食と食料生産システムのおかげで問題なく暮らせていたけど……あるときそのシステムに異常が発生した」
「嫌な予感しかしないぞ、それ」
「日に日に食料は減り、人々にも不安が募っていく中……こいつはあることを思いついたんだ」
「あること……? あ、まさかなんデスけど、これを……」
カルディエの言うところの『これ』とは、眼の前にある邪悪な装置群とタンクの中身だろう。
ヴァニタスが深く頷く。
「こいつはこう考えた。共食いは死んでも選択はできない。人肉を食らうのは許しがたいことだ。ならば、人肉を使って作物を育てればいい。そうすれば共食いにはならない……最初から狂ってたのか、飢餓が狂わせたのかはわからない……けど、そうやってこいつ以外の人間は、改造されたヘカトンケイルに殺され、全て悪臭に満ちた肥料に変えられた」
「そこまでして、最期は独りのまま死んだわけデスか……」
「死因はなんだったんだろうね……防護服に損傷は見当たらない。外傷ではないはず。老衰か、病気か。案外、食あたりかも。記録の最後の方に、腹部の痛みを訴える文章が綴られてる。こんな不衛生な肥料を使ってたら危険なのも当然だけどね」
「自業自得もいいところな」
「問題はその後だね……」と、顎に指を当てて、ヴァニタスが作物の残骸に目を落とした。
「おそらく、あのヘカトンケイルはずっと作り続けている。あらゆる生物を捕まえて、この肥料に変えて……もはや食べるもののいない作物を育て、収穫し……この動かない創造主に捧げ続けてきたんだ」
「あいつ、終わらない地獄に取り残されてるんデスな……」
良い余生を送っていると評したことを悔やんでいるのだろう。カルディエの表情は苦しげであった。
四〇〇番台機甲塔の一部のみに備わる自己修復システムが、あのヘカトンケイルを今まで保全し続け、その結果、この忌まわしい作業は繰り返されてきたのだ。
誰も幸せにならない永劫の苦行。
誰かが断ち切らねばならない。
「でも」
ヴァニタスが不意に呟いた。
少しの間を置いてから続きを語る。
「ちょっと気になることがあるんだ」
「気になること?」
「うん……まだ違和感程度だけどね……とりあえず、まずはその子を助けよう」
「おう、任せろ! 壊しやすいとこの目星はついたデス。こんな檻なんぞ、カルディエがいますぐ爆散してやるからな!」
「……いや、爆散はまずいから」
「わーかってる、わーかってる。ものの例えってやつな」
と、息巻いて、カルディエは憤怒の形相で檻の格子を押し広げた。太い格子もジャガーノートの怪力の前には為す術もない。あっという間に、人一人通れる隙間ができる。
「よし! これで出れるぞ。おいで、キューちゃん」
「キューちゃん?」
ヴァニタスが、なんとも形容しがたい表情を浮かべた。
初対面のはずのオキュペテに、すでに愛称がつけられている。どうしたものか。
「オ『キュ』ペテだから、キューちゃん」
「うん、まあ、そうなのかなあとは思ったけど……」
「可愛い名前だな! な!」
と、ヴァニタスとオキュペテに同意を求めるも、反応は芳しくない。それどころかオキュペテは怯えて檻の奥に身を寄せている始末だ。
「ええー……なんか、すっげーおっかながられてるんだけど……」
「た、多分、あのヘカントケイルの仲間だと思われてるんじゃないかな」
檻を壊す時の顔が怖かったのでは、とは言えない。
「うっそ、あいつと? なんで?」
「えーと、同じドロイドだから……?」
「空前絶後にショックなんデスけど、それ」
肩を落とす相方を慰めようと思うも、優先順位としては、それはあとだ。
カルディエと入れ替わり、ヴァニタスが檻に半身を潜らせ、オキュペテの少女に手を伸ばす。
オキュペテは甲高い声を上げて威嚇した。威嚇の声すら美しい。黒き大海の歌姫と、過去の拘束技師が注釈に加えた理由がよく分かる。
「ああ、これじゃ怖がるよね」
と言ってガスマスクを取り去り、ほほ笑みを浮かべた。
強烈な悪臭が再度、鋭敏な嗅覚を苛む。だが、その苦痛をおくびにも出さず、ヴァニタスは待った。
信頼とは砂山のようなものだ。積み上げにくく、崩れやすい。だからこそ忍耐がいる。
オキュペテは所謂言語と言うものを持たない。代わりに相手の機微を読み、真意を見通すと言われている。
少女の金色の瞳から、次第に怯えの色が薄らいでいく。
「大丈夫。行こう。君の仲間の元に」
ヴァニタスの言葉を受け、オキュペテは翼腕をヴァニタスの手に重ねた。
ヴァニタスが檻から出るのに合わせ、少女も檻をあとにする。
二人が檻から出ると、オキュペテ―――キューはヴァニタスに抱きついた。甘い声をもらしながら、長い舌でヴァニタスの顔を舐め、しきりに頬を擦り寄せる。完全に懐かれた。吊り橋効果という言葉を知らぬヴァニタスには、理由のわからない好意だろう。
面白くないのはカルディエだ。頬を膨らませ腕を組む姿が、ヴァニタスの視界の端に映る。彼女を直視するのは避けたい雰囲気だ。
「と、とりあえず、ここから出ないと」
タブレットを引っ張り出し、図面を表示する。キューに抱きつかれながらなので、すこぶる操作しづらい。
どうやら、ここは元々廃棄物処理施設の一つ、機械粉砕用の部屋だったらしい。この大型の機械は、本来は鋼鉄すら砕くためのシュレッダーか。それでキューのような柔らかい生き物を砕き殺していたのかと思うと、腹の底からぞっとする。
廃棄物処理とカルディエのイメージが重なり、彼女に視線を移す。目が合いそうになったので慌てて逸らし、タブレットを凝視する動きの速さは、素晴らしいほどだった。
「ん、最初に登った方の上段側に扉がある。その先に汚水処理層へ繋がる螺旋階段……遠回りだけど、そこから特殊貯蔵施設に行けそうだ」
「そっか」
そっけない返事だった。機嫌を直してもらうのは骨が折れそうだ。
しかし、それは不機嫌から来るものではなかった。
「ヴァニタス、その子を連れて先に行くデス」
「え?」
短い疑問符に答えをもたらしたのは、カルディエとは別の存在だった。
隔壁の向こうから鳴り響く駆動音。
舞い戻りし、機械仕掛けの案山子。
キューが悲鳴を上げて、一層強くヴァニタスの首に抱きついた。
「あいつ、さっきの工場に取りに戻ってただけな……この隔壁を切り裂ける工具を!」
隔壁にオレンジ色の線が疾走る。右上部から左下部へ。そして、左上部から右下部へ。火花が盛大に飛び散り、部屋の全てを明るく染める。
「早く! あいつはカルディエが相手する!」
號と吠えるジャガーノートの気迫に押され、猫の尻尾が膨らむ。
いつものように怖じけている場合ではなかった。いまは、自分以外に守らねばならない命が腕の中にある。
臍下丹田に力を込め、気合と共に相方に一言。
「待ってるよ、カルディエ!」
ヴァニタスが駆け出す。
負けないでとも、勝ってとも言わない。
当たり前のことだ。
ジャガーノートが負けるはずがないのだから。
―― 2 ――
分厚い隔壁が切り裂かれ、断片が折り重なりながら崩れ落ちた。
開いた大穴から見える異形の巨人、狂気の案山子。
それに戦慄する戦乙女ではない。敵に果敢に挑まんと、大きく脚を広げ、コートの袖をまくる。
あらわになった金属の両腕。力を込め、横に広げる。
その姿は、羽ばたく寸前の鳥の優雅さ。気高さ―――破壊者の名を冠する者の、戦闘開始の合図。
うねる紫電が彼女の体を撫でる。回路に住まう電子の蛇が少女の意思を力に変え、無慈悲な暴力を小さき体に宿すための御前となる。
絶大な力が姿を現し始めた。
生木を砕く音に酷似した起動音を皮切りに、カルディエの両腕が形を変える。右手は長方形のパーツを構成の主体要素とした禍々しい砲身に、左手は指先を残したまま、手甲のように肥大した前腕部に二つの銃身を備えた形態に。
紫電が走ったのは一瞬。変形に要した時間も同様に。
具現化武装はここに完了した。無理無体をまかり通す、破壊者の降臨だ。
微かに輝く紅い瞳で、無残な扉の骸を睨む。
不敵な笑いが漏れた。
ドロイドは、どいつもこいつも扉の開け方を知らない―――自分を含めて。
切り裂かれた扉の向こうから、のそりと巨体が現れる。
プラズマ式切断工具を片手に、無数の兵器を体中に生やしたヘカントケイルは、もはや機械ではなく、殺人を至上とする魔物の様相を見せつけていた。
魔物上等。相手にとって不足なし。
カルディエの右手が電磁の魔弾を撃ち放つ。
電磁投射砲の一撃がヘカトンケイルの右肩口に命中した。
装甲が弾け飛び、のみならず、その下の素体部分も抉り取る。圧倒的な弾速と貫通性能の前に、百腕の殲滅者すら紙切れの如く。
が、素体部分が瞬時に再生。機甲塔の自己修復システムとリンクしているからこその芸当だ。塔の中限定ではあるが、このヘカトンケイルを打倒するのはジャガーノートといえど一筋縄ではいかない。
「そういや、ここ、お前の家か! だったら客は丁重にもてなさないと、お里が知れるぞ!」
不法侵入者がなにをほざく―――そう吐き捨てたかは定かではないが、ヘカトンケイルが今までにない鈍い唸りを上げた。
カルディエに向かってヘカトンケイルが突進。大重量の豪腕を唸らせ、輝くプラズマの刃を振り下ろす。
カルディエは身を捻って皮一枚で回避。外れた刃は空を切るだけでは飽き足らず、硬いコンクリートの床も切る。
最小限の回避行動は攻撃に転じるための布石。今度は銃口が密着するほどの至近距離で魔弾を放つ。
一撃目と同様に、ヘカトンケイルの胴体が抉れる。その後の再生まで先ほどと同じだ。
再生も終わらぬうちに、横薙ぎにプラズマブレードが振り抜かれた。
切り裂いたのは、わずかの緑髪のみ。
カルディエは絶大な脚力にものを言わせ、一瞬で後方壁際まで退避していた。
距離があいてもヘカトンケイルの重火器による追撃はない。予想通りとカルディエがほくそ笑む。奴は施設や創造主への被害を嫌っている。
戦乙女の両足に、さらに強大な力が渦を巻く。
爆発じみた跳躍。壁に、天井に、重力を捻じ曲げるほどの脚力をもって縦横無尽に跳ね回る。
目で追えぬ速度に翻弄され、ヘカトンケイルがカルディエを見失う。
彼女はどこへ。
せわしなく周囲を見渡すヘカトンケイル。
その両肩に、優雅な曲線を描く鋼鉄のつま先が降り立った。
「鬼さん、こちら」
頭上から無邪気な戯れを送り、カルディエの左手が火を噴く。
大量の散弾を高速でばら撒くは、二連装のフルオートマチックショットガン。近距離での破壊力ならば、電磁投射砲にも負けてはいない。
ヘカトンケイルの頭部が一瞬で引き裂かれ、大穴を穿たれる。それも瞬時に再生。莫大な散弾の嵐ですら、打倒にはいたならいのか。
しかし、臆することなくカルディエが追撃する。
塞がる寸前の大穴に強引に電磁投射砲の銃身を捻りこみ―――
頭から股間部まで、最大出力の魔弾にて巨人を貫く。
爆音と跳ね回る金属片の共演。巨人の全身から溢れた強烈な光は、中で爆ぜた力の凶悪さを物語る。
重要機関も電脳も魔弾に蹂躙され、タフネスを誇るヘカトンケイルもついに膝を崩す―――かに見えた。
たたらを踏んだ脚が力強く床を踏む。
中身を破壊しつくされてなお、巨人の動きは止まらず。
ヘカトンケイルの腕が頭上を薙ぎ払う。間一髪、カルディエは軽やかに床に降り立ち、一足とびにシュレッダーの陰に身を潜めた。
「うへえ、あのやろ、死に方を忘れてるんじゃないデスか?」
思わず悪態が口をついて出た。
ここまでは、カルディエの一方的な立ち回りと言える。敏捷性と的の小ささを活かし、空間を立体的に使う―――十八番の戦闘流儀が有効に働いている。
しかし、埒が明かない。ヘカトンケイルが、と言うより、機甲塔の修復システムが馬鹿げすぎている。スクラップ手前から、もう完全に再生しているではないか。
ただし、カルディエが指摘したセンサーアイの破損は直っていない。自己修復システムは、保全リンクされた時点の状態までしか修復できないのだ。
ヘカトンケイルが吼えた。メインアームを体内からさらに生み出し、合計四本の豪腕を震わせる。背面から伸びる細いマニピュレータは数さえ把握不可能なほどに増殖した。
寡黙な巨人がついに本性を表した。標的の戦力に合わせて兵装を増殖させる、百腕の名の通りの姿形であった。
胴体から無数に生えた20mmガトリング砲と、マニピュレータに備わった7.62mm機関銃が狂乱の射撃を敢行する。狙いなどつけない。当てようとせずとも当たるのだ。それほどの弾数を誇る。
怒りに任せた乱射は、ヘカトンケイルが守り続けてきたものも貫いた。タンクに無数の穴が空いて中身を床にぶちまけ、シュレッダーも原型を留めないほどに崩されていく。カルディエがへし曲げた檻すら粉微塵だ。運良く、的の小さい創造主の遺骸だけが乱射の犠牲にならずにすんでいる。
カルディエが舌を打った。自分の攻撃が、農夫として彼を縛り付けていた何らかのシステムを解除してしまったらしい。もはや彼は農夫であることをやめ、本来の破壊兵器として振る舞い始めたのだ。
物陰で銃撃をやり過ごしながら、カルディエは思った。
百腕の巨人が歓喜に震えている。狂気じみた乱射は、解放と破滅を祝う祝砲だ。こうなることをあいつ自身、望んでいたのではないだろうか。
「なら、こっちも御祝儀くれてやる」
カルディエの両腕に紫電の蛇が這い回る。電磁投射砲は鋭利な刃を備えた巨腕に、ショットガンはカルディエを覆い隠すほどの積層偏向シールドへ姿を変えた。相当に物騒な『御祝儀』である。
望むは近接戦闘。体重差などどこ吹く風の、疾風迅雷の殴り合い。
荷物の入った耐久バッグを背にくくりつけ、結び目を確かめる。物資の補給に来た以上、それを手放すのは本末転倒。
「ハンデの重り代わりにちょうどいいデス」
強がりを吐き出せる程度に準備は整った。
新たに具現化した兵装を打ち鳴らすと、緑の髪をなびかせながら、戦乙女が百腕の巨人に踊りかかった。
―― 3 ――
非常灯の赤色に浮かび上がる螺旋階段。金属製の足場をリズムよく下りる音が、赤色の薄闇に響き続けている。
逃避行の連続に、ヴァニタスの膝も笑いだしてきた。幸い、腕に抱くキューは鳥類らしくとても身軽なので、大きな負担にはならない。むしろ欲張って色々詰めたリュックやバッグが問題だ。
「体……鍛えないから……こんな目に合うんだ……」
切れる息を混ぜながら、貧相な体に対する自虐を吐く。
「きゅぃ……?」
キューの鳴き声は申し訳無さそうだった。
ヴァニタスの負担を察したか、彼女はひょいとヴァニタスの腕の中から飛び降り、鳥脚で器用に跳ねながら階段を降り始める。
「あ、ありがとう」
「きゅぅ」
ヴァニタスが微笑むと、キューも同じく微笑む。知能が発達していなくても、彼女の心は豊かだ。
キューが降りてくれたおかげで、タブレットを操作する余裕が生まれる。図面を展開し、先にある施設の見取り図を拡大。最短経路で下層へ行ける道を探しだす。
螺旋階段を降りれば、汚水処理施設に到達する。問題は、施設としてはそこが一つの終着点ということだ。
つまり、正式に下層へと到れる通路や移動手段があるわけではない。
だが、行き止まりではなかった。処理した汚水を下層へ流し、工業用水とするためのパイプがある。パイプは数本束ねられ、専用の作業トンネルを通って下層まで通じているのだ。そのトンネル内部を通っていけば、下層までは一直線だ。
ただ、トンネルは途中、いくつかの隔壁で仕切られている。これは管理室で操作しなければ開かない仕組みになっている―――はずだ。他の機甲塔から予測した情報に基づけば。
上手くいくかは分からない。見取り図から分かる情報には限度がある。
「それでも、この方法しかない……」
カルディエがヘカトンケイルをひきつけている間に、目的の物資を確保しなければならない。猶予は多くない。
カルディエが強敵と戦うように、ヴァニタスも困難に立ち向かう。蓄えた知識と磨いた技術の見せ所だ。
そうこうするうちに、長い螺旋階段はようやく終わりを見せた。
非常灯を上部に備えた扉がヴァニタス達を出迎える。古いディスクシリンダー錠がかかっているも、ヴァニタスには無いも同然だ。ピッキング用の道具を取り出し、キューが数度首をかしげてるうちに開けてしまった。
開いた扉の先には、上層の浄水装置に似た設備が広がっていた。実際、全体の機構はほとんど同じだ。違うのは産出物の使用目的である。あちらは飲料水、こちらは非飲用及び工業用水。
管理室の場所は先程図面を展開した時に把握している。
跡をつけてくるキューを気遣いながら、パイプと機械の臓物をくぐり抜ける。頭をぶつけないでねと言った矢先に、軽い衝突音とキューの悲鳴。涙目になる彼女の頭をさすり、並んで先に進む。
「ここか……」
管理室の扉は、電子的にロックされていた。本日四度目のハッキング。ここのセキュリティの癖はすでに掴んでいる。
カチリと錠が外され、自動で扉が開いた。
モニターとコンソールの並んだ殺風景な部屋は、アトラクのコンソールルームを思わせる。
であれば、ヴァニタスにはお手の物だ。手早くトンネルの隔壁を開き、通路を確保する。
あとは、長い縦穴のトンネルを降りていくだけ―――それが一苦労なのだが。
施設の最奥の床に、トンネルに通じるハッチがあった。それも管理室の操作により、大きく口を開けている。
恐る恐る、ハッチの中を猫目が覗き見る。
等間隔に明かりの灯った底なしの穴が視界を埋めた。案の定、作業トンネルを昇降するには、備え付けられた梯子を使うしかなかった。
困ったことに、トンネルは予想以上に狭い。広さに余裕があればキューは飛んで降りられるかとも思ったが、そうもいかなそうだ。
「翼腕じゃ、梯子もつかめないしね……」
再度、男を見せるときかとヴァニタスが苦く笑う。
キューは首をかしげるばかりであった。