648-1881『執念の幽鬼、おのが造物主を呪う』
―― 1 ――
紙の書物。
まだ大地というものがこの世界にあった時代には、ありふれた存在だったらしい。
しかし、世界が黒い海に覆われた今となっては、ほとんど失われた貴重な遺物だ。
その貴重な遺物が目の前でゆっくりと開かれ、鮮やかな絵と文字の織り成す物語が進んでいく。その展開に心躍らせ、悲しみ、おそれ、喜ぶ。
己の情動が物語に呼応し、変遷する心地よさ。
心地の良さを与えてくれるのはそれだけではなかった。
装甲に覆われた体に触れて冷えないように、人肌の電熱シートをわざわざ全身にまとい、そっと抱きしめながら、優しく、愛おしく語りかけてくれる最愛の人。その人の声が耳を通り脳に届くたびに、幸せと安堵が自身を満たす。
そう、これはあの人が物語を読み聞かせてくれた記憶。
どんな物語だっただろう。細部が思い出せない。
一つだけ確かに覚えているのは、その物語は結末までたどり着かなかったということだ。書物が古すぎて最後が欠落していたのか……そもそも未完成だったのか。それすらはっきりとしない。
遠い昔の記憶だからか。
温もりと愛情に包まれ、夢見心地に聞いていたからだろうか。
それとも―――この身体ゆえだろうか。
自分が自分でなくなってから、どれほどの時がすぎたのかも分からない。ゆえに、幼き頃の記憶などそれ以上に希薄化しているのも道理であろう。
時の流れは全てを変える。
見た目だけではない。
思いも、信念も、在り方も。
時はあらゆる物に摩耗と再構築を促し、森羅万象全てを作り替えていく。
そうであるならば。
いま、自分たちがなそうとしている事は、時の意思に逆らう行為なのではないだろうか。だからこそ何百という試行の全てが実らず、袋小路に追い込まれる鼠のように、この場所へとたどり着いたのではないだろうか。
疑問が浮かび、身の内をまさぐる。こそばゆい。不快と言い換えてもいい。
答えなど出るはずもない。出せるだけの能力もとうに失っている。
かすれる思い出は、手のひらからこぼれる砂となり、再度すくい上げることも叶わず……ただ、手にあった頃の記憶を懐かしむのみ。
そう思っていた。
あの子を見るまでは。
衝撃であった。
行動に移ったのは、もはや本能に等しかった。
そこには、あの時の輝きの一部が確かに存在していたのだ。
あの歌姫の、あの輝きが、確かに。
ゆえに、心苦しい。
これから自分たちが成さねばならぬ非道を思うと。
ああ、神よ。
神よ。
何故に我らを見捨てたのだ。
―― 2 ――
影震の魔女―――クー・フーリンが吠えた。
我が子を奪われたような。
半身を裂かれたような。
そう。例えるなら赤黒い焔。眼球の裏で脈動し、電脳の素子一つ一つを焦がさんと、心の動揺をふいご代わりに火勢を増す、蛇の群れの如き激情の炎。
耐え難い灼熱の激情が、魔槍の主を内から苛む。
目の前でキューを拐われるというあってはならない失態。まんまと敵の思惑通り、間抜けな道化役を演じさせられたのだと知り、クーの表情が酷く歪む。
しかしクーの切り替えは早かった。足しにもならない悔恨の念は補助電脳群に食わせ、即座にゲイボルグの出力を上げる。
キューが拐われ、この場にいないのならば。
それは魔槍の余波から守らねばならぬ者もまた、いなくなったということなのだ。
十本の魔槍が大量の蒼き燐光を纏った刹那―――音を置き去りに、屍人の兎へ鉄槌を、否、鉄槍を下す。
迸る十の蒼き閃光。周囲をなぶり尽くす衝撃波を足跡に、有るも無しも一切を穿つ魔槍の群れが、兎人の少女に牙を立てる。
―――はずだった。
魔槍が抉ったのは空。
有るも無しも。その無しの方だ。
では、有るべき兎人の姿は。
補助電脳群が主電脳に叫ぶ。
上方、天井付近と、悲鳴のように。
クーの視線が跳ね上がる。
ただ一度の跳躍にて、背面跳びの要領で天井すれすれを飛翔する、魔槍の襲撃を避けた屍人の姿がそこにあった。
なんたる絶妙の機。読んでいたのか。独立機動弾体の軌道のみならず、それらの起こす衝撃波のぎりぎり範囲外となる距離すらも。
―――だが宙ならば、ただの的!
追撃の魔槍を三振り構えるクー。
しかし、またもや兎人が一枚上手となる。
たくましい兎人の両足が天井を蹴ったのだ。
新たなベクトルを加えられた小柄な体が、弾丸となってクーの眼前に降り立つ。
予想と大幅に異なる軌道。対応が遅れる。三振りの魔槍はまだ切っ先を天井にむけたままであった。
既にショベルは振りかぶられている。
三振りの魔槍が主の盾とならんと立ちはだかった瞬間、極限まで引き絞られた兎人の筋肉が破壊を解き放った。
ショベルと魔槍がぶつかり合う。矛と盾のせめぎ合い。拮抗。文字通り火花散る攻防は、されど一秒も続かすに終わりを告げた。
クーが呻く。
兎人が得物たるショベルから手を離したのだ。まるで差し出すように、なんの躊躇もなく。
クーが意図を読み損ねる。
そこを補完するのはまたもや補助電脳群。兎人の足運びと重心の動きから行動予測、主に結果を伝える。
魔槍の間合いの内側、拳の届く距離での肉弾戦。それが兎人の狙いだ。
予測は寸分違わず的中していた。兎人はショベルを捨て、さらに軽快となった身一つで超接近戦を挑んできたのだ。
握られた左拳がクーの腹部目掛けて繰り出される。
だが遅い。ショベルの斬撃に比べれば遥かに。クーにとって素手で捌けぬ一撃ではなかった。狙われた箇所を覆うように畳んだ左腕で防御行動を取る。クーの身を包むバトルスーツは、衝撃を受けると硬化する有機ショックアブソーバー内蔵式だ。打撃には極めて高い防御性能を発揮する。
故に防御は完璧。
その油断を左手首ごと掴まれた。
握られていたはずの兎人の左拳によって。
対処する間はなかった。
兎人が渾身の力でクーの腕を引くと同時に、右の肘を無防備となったクーの脇腹に叩き込んだのだ。
ごぎりと、極めて聞き心地の悪い打撃音が通路にこだました。
体内に響いた重苦しい低音と衝撃は、クーがこれまで経験したあらゆるダメージを凌駕するほどのものだった。
視界に流れる幾多ものレッドアラート。エラーと損害報告の大渋滞が主電脳を混乱させる。
複数の内部機構が機能不全を起こす。胸部フレームの著しい変形。左肋骨様防御骨格が半壊。物質的破壊のみならず、不可解なソリトンまで叩き込まれ、それがクーの体内を駆け回り、精密機器を蹂躙しつくしていく。
機能停止。その間、わずかゼロコンマ四秒。
致命的だ。死闘において、あまりに致命的な隙であった。
ノイズの走るクーの視界に、握られた兎人の拳が自身の体を打ち抜く様子が克明に刻まれた。
兎人の脚が半歩踏み込む。
床が砕かれる轟音。踏み込みの威力を余さず乗せ、放たれる縦に握られた拳。
魔槍の突進に勝るとも劣らない拳の槍がクーの胴体を捉えた。
強烈な不協和音が産声をあげる。
兎人の拳が砕いたものが音源であった。
クーのか細い身体ではない。
突如彼女の胴体部を覆った複層の構造物、その断末魔である。
大きくひしゃげた金属板がクーの足元に落ちる。
さすがにこれは予想していなかったか、兎人は大きく間合いを取り、ショベルを拾うと、肩に担ぐおなじみの構えを取った。
同時に全機能回復を補助電脳郡が通達する。彼女の相棒たる補助電脳群は極めて優秀であった。
補助電脳群が主に代わって十二の魔槍を周囲に展開し、防御を固める。さすがにこの堅牢な守りは攻めあぐねるか、兎人の猛攻はなりを潜めた。
『貸し一つじゃぞ』
朦朧とする意識の中、クーの電脳が受け取った短距離通信はリジュ=ボアからのものであった。
咄嗟に無限艦隊の重装甲板をクーの胴体部前面に発現した判断とタイミング。自身も敵と対峙しながらやってのける技量。
やはり特化試製型は違うと、クーの口元が緩む。
「余計な……お世話……」
あえて短距離通信ではなく発声にて返したのは、量産機のささやかな矜恃ゆえであった。
背後で戦う姉の呆れたため息が聞こえた気がしたが、気のせいだと結論づける。
いや、ため息は強がりに対してのものではないかも知れない。
クーを拐われた動揺。そこからのお粗末極まりない拙攻の連続。兎人が優れた戦士であることは間違いないが、クー本来の実力であれば対応できないものは一つとしてなかった。
心の動揺が彼女の技量、判断、動作、全てに枷をはめている。
これこそ、兵器に心を宿すことの無意味さに他ならない。
生み出されし側にはいかんともし難い理不尽。
造物主に対する怒り。彼の者の都合と身勝手さが、無数の機械仕掛けの乙女に、永久に解けぬ鎖を巻き付けている。その事実に対する尽きぬ怨恨が、クーの自我を飲もうと大口を開けているのだ。
抑えがたい。抗いがたい。救いがたい。
ぐじりと、クーの腹の奥で憎悪が身を捩る。
さわりと、クーの黒髪の先端が重力に逆らう。
ああ。委ねよと―――頭頂が。ふくらはぎが。踵が。両目が。
何かが、クーの内側から彼女を忘我の境地へ。
『愚か者』
クーが我に返るには十分な叱責であった。
『あの姿を顕すことは二度としないとわらわとした約束、一度の失態ごときで違えるか』
『失態ごとき……ですって!?』
クーの目尻が釣り上がる。キューの命は決して『ごとき』ではない。
『リジュ=ボア、あなた……自分がなにを言ったかわかってるの!?』
無数に襲いかかる鉄肉の嬰児をこともなしと次々に分解しながら、リジュ=ボアの短距離通信も涼やかに紡がれる。
『当然じゃ』
『なんですって!?』
『問おう。お主は。わらわは。何者じゃ』
返答に戸惑う。
短距離通信は電脳同士の会話だ。聴覚や視覚を介した言語として理解しているわけではない。故に意思疎通にかかる時間は極端に短い。この会話も一秒すらかかっていない。
ゆえに、数秒にわたるクーの沈黙は永劫に等しい相対的時間となる。
「ジャガーノート」
たおやかな喉より紡がれし有声の答えは、涼やかに。
血肉の花吹雪を化粧に踊る、魅惑の妖狐が凛と宣告する。
「我らはジャガーノート。破壊せしもの。理不尽を打ち砕き、残酷を食い破り、在るべきものたちと共に白き物語を紡ぎつづけるもの」
リジュ=ボアの―――尊敬する姉の、勇ましく美しい語り文句。
聞き惚れるとは、まさにこのことだった。
「ゆえに」
リジュ=ボアの両腕が宙を薙ぐ。纏う衣装の袖が追随し、優雅な円を描く様のなんと絵になることか。
「失態に心揺り動かされる暇あらば」
円が描き切られた瞬間。
「思い出せ」
紫電の蛇がリジュ=ボアの肢体を這い上がる。
「我らが身に宿し『暴力』の意味を!」
美しき号令に呼応し、力が顕現した。
リジュ=ボアの前後に現れしは大量の重火器。超硬フレーム式二十ミリ重機関砲。込められた弾丸は20×139ミリサイズの単分子皮膜弾頭型特殊徹甲弾。薬莢の中身の特殊高反応圧縮薬剤は、同量火薬の三倍量相当のエネルギーを発する。生身なら、いや重装甲のドロイドすら、かするだけで手足が吹き飛ぶ代物であった。
当然である。これは「艦載砲」なのだ。
それが前後合計十六門。無論、通路のどこにも逃げ道はない。
ゲームを盤面ごとひっくり返すようなゲームブレイカーであった。
クーが怖気だつ。射線上に兎人二体はもちろん、自分も入っているのだ。
凶悪な銃身の茂みをくぐり抜け、慌ててリジュ=ボアの背中に飛びつく。
ガンファイアの絢爛豪華な合唱は、それとほぼ同時に開始された。
雨あられ……などという生ぬるいものではない。
もはや壁だ。弾丸の壁が通路にある全てのものを轢き潰し、すり潰し、砕き殺す。
破壊。破壊。破壊。破壊者の名のままに、欲するままに、何万という弾丸が踊る。跳ねる。食い荒らす。
きっちり十秒で金属製豪雨は晴れ上がり、あとにはガンスモークの雲が残るだけであった。
クーが恐る恐る頭を上げると、頭部のセンサー類で白煙の中を検知する。
動くものはなかった。
あれほどの強さを誇った二体の兎人は、巨大な弾痕だらけの通路に広がる肉の汚物へと姿を変えていた。クーの苦闘をせせら笑うほどのあっけなさすぎる結末であった。
最初からこの手段を……とはクーは言わなかった。
「大口叩いておいてあれじゃが……わらわもお粗末な手段をとってしまったのう」
リジュ=ボアが頭部をやにわにかきむしる。
自分と同じことを考えていたのだろうとクーは察した。
すなわち『生け捕り』だ。
兎人の脳髄から情報を吸い出すつもりだったのだ。
ゆえに力まかせの破壊行為は避けていた。
「いえ、この場合は仕方ないわ。キューを助けに行くのに時間が惜しいもの」
殺すことより生かして捕らえることのほうが何倍も難しい。キューの救出を優先すべき現状で、これ以上戦闘に時間はさけない。リジュ=ボアの判断は的確であったとクーも理解している。
「そのキューじゃが」
と、リジュ=ボア。
右の人差し指を眼前に立てて、口角をわずかに上げている。
「おおよその位置と生存の確認は取れておる」
クーのあごが落ちたのは言うまでもない。
「ちょ、どうやって!?」
「夕餉にキューに馳走したものに極小のカプセルを仕込んでおいたのじゃ。無限艦隊の一部入りのな。まあ、本来は流海の女王にいる間に迷子になられたら困る……ということで仕込んだのじゃが」
なるほど、つまり悪霊を追跡した手法と同じものをキューにも施していたわけだ。万が一の保険として。
「そういうことは先に言ってよ、もう!」
「さっきまで忘れゲフンゲフン、敵を騙すにはまず味方からなのじゃ! えっへん」
豊満な胸をこれみよがしに張り、クーに見せつける。
姉の頭を思い切り殴り飛ばしたのは、ほぼ条件反射であった。
「漫才してる場合じゃないわ、早くキューのところへ案内して!」
「ごっついツッコミしたお主の言っていいセリフじゃないのじゃ、それ……」
「なにか言った!?」
「あ、はい、しゅみましぇん、しゅぐご案内しましゅ……」
涙目で先導を開始する姉に追随しながら、クーは散乱した独立機動弾体を脚部ユニットへ収納する。
その最中、彼女の視界の端に兎人の成れの果てが見えた。
おそらく頭部だった箇所。ぶちまけられた脳髄にまざる粉々の機械片は、どうもジャガーノートの電脳に酷似しているように思える。
まさか、とクーは自身の思いつきに顔をしかめた。
あの兎人は何らかの機械類と融合していた。
その機械とは、よもやジャガーノートなのではないか。
覚えがあるのだ。
兎人の見せた戦闘技術―――はるか古代の大陸で生み出された武術。それのみで戦い、一切の具現化武装を用いないジャガーノートがいたことを。
確か、名は……
「ジャオ……シンジャ……だったかしら」
馬鹿らしいと、首を振る。それは自分たちの敵対組織の構成員として、今も活動しているはずだ。まして、こんなところで動く死体のパーツになるような手合ではない。
だが……
「なんじゃ、気になることでもあるのかのう?」
「あ、ううん。なんでもないわ。行きましょう」
不可解なことが多すぎるのは、この世のものではない者を相手にしているからなのかも知れない。
現実離れした考えを振り払い、クーはリジュ=ボアの背を追い始めた。
―― 3 ――
キューは幾度も目を瞬かせ、見間違えではないことを確認していた。だが、そうすればするほど疑念が膨らんでいく。
目の前にいる存在は、どう見てもこの世のものではない幽鬼そのものだ。
なのに、キューにはどうしても否定できなかった。
悪霊の如き存在が、自分にとって大切な家族の一人であるということを。
数度口を開きかけ、思いとどまる。何を言うべきか、どう問うべきか。幼きオキュペテの知能では打開となる言葉を明確な形に出来ないまま、徒に時が過ぎていく。
その様子に何を思うのか、悪霊はじっとキューを見据えたまま動こうとしなかった。
すると、突如笑ったのだ。
くつくつと静かに煮える鍋の泡のような声で。
「似ているな」
似ている? キューにはその言葉の意味がまるで分からなかった。
「あの子に……よく似ている。白痴の忌み子などと呼ばれていた……あの子の幼き時の姿に」
そう独りごち、悪霊は肩を微かに震わせている。
笑っている……はずだ。
だがキューには違う様子に見えた。
泣いている。どうにもならないことに、無力さに泣いている。そう見えるのだ。
だからこそ思わずキューの口から出た言葉は、ただ純粋に相手を思いやる一言だった。
「大丈夫……?」
悪霊の動きが止まる。聖なる乙女の祈りにて妄執と怨念を浄化されたか。
「……この状況で他人の身を……まして拐った者の身を案じるか。ますます似ている。だからか」
悪霊が天井へと目を向けた。
そこに闇と―――何かがいる。
「死体で構わないと言ったはずだが……生かしてここに連れてきたのは、それが理由なのだな」
ごぽりと闇が鳴き、そこから重量のある巨大な物体が床へと落ちた。
キューの羽毛が膨らむ。恐怖により生じる無意識の防御反応だ。迫る脅威にいかほど効果があるかは疑わしいが。
闇の混沌より何かが這い寄る。
ずるり、ずるりと濡れた匍匐行為の音がキューの鋭敏な聴覚を否応なく舐め尽くす。
そうして次第に明かりの灯る範囲へと、もう一つの異形が姿を晒し始めた。
奇っ怪。醜悪。それ以上に―――なぜか憐れであった。
白濁の粘液に塗れた肉塊。無数の触手。
そして見とれるほど美しい青い瞳。
這い寄る怪物に備わる無数の青き瞳は、大小の区別なく全て縦に長い瞳孔を有していた。
ああ、やはりと、キューは愕然と納得した。
同じだ。寸分違わず、同じなのだ。
あの人の瞳と。
いま死地にいるはずの、救うべき家族と。
何故。どうして。疑問ばかりがキューの小さな胸を叩き荒らす。
「懐かしむ暇はないぞ。わかっているのか」
悪霊が肉塊に語る言葉は文面としては叱責のそれだが、口調は穏やかだった。母が子を優しく諭す様子に近い。
「……お前のそういうところは短所だ……が、そう育てたのは私か」
傍目には悪霊が独り言を続けているようだが、どうやら肉塊は通常の発声方式とは異なる方法で悪霊と会話を行えるらしい。
そういった理由から会話自体が把握出来ないことに加え、悪霊の言葉の意味をキューは全く理解できなかった。ただ、とても辛そうに語っていることだけは感じ取れる。
血を吐くように。悪霊の語り口は、そう表現するのが相応しかった。
「多次元跳躍機構の因果許容限界が近い。この近似世界で事をなし得ないなら、もう道はないぞ……」
肉塊が震える。無数の瞳に宿る光が一切に昏い色へと変わった。
「……何を言う。今までの全てを無駄にするつもりか」
悪霊の口調が変わる。怒り。むしろ悲嘆か。
「託す? 諦めろと? いまさら情を抱いて何が変わる……成すならば己が成さねば意味が無い。同じ姿、同じ名前の無数の可能性があろうとも、私達は私達なんだ。代わりはいない!」
悪霊の言葉が早く、激しくなる。蓄積した膿を絞り出す荒治療の様相に、キューは身を縮めて見つめるより他になかった。
「他に方法はない! あの外道の鸛に私の全てを差し出してしまったのを忘れたか!?」
悪霊が壁を叩く。しかし、その力は弱々しかった。
「まだ分かってないのか? 失敗したんだ、私達は! あの浮導体で! だからこそ途切れた! 私達の物語は続かなかった! 何か神のごとき世界を描く筆があるなら……私達は、その筆が続きを描く事を放棄した未完成の廃棄物だ!!」
悪霊の激昂たる口上はそこで終わりを告げた。
あとには痛ましい沈黙だけが残った。
異形二人の口論に怯える少女にとって、この沈黙の痛みは耐え難い。そわそわと二人に視線を交互に移す。
意を決した彼女を勇敢と賞賛するか、短慮と誹るべきか。
「あの……」
おっかなびっくり、小声で語りかける。
異形の視線が無言のまま貫いてきた。生きた心地がしない。
「カルディエと……ヴァニタス……だよね?」
異形の視線が見つめ合う。
「この子がヴァニタスだと……なぜ思う?」
「同じ……綺麗な目をしてるから」
「それだけが理由か……いや、それが理由、なのか……」
「二人とも見た目、違う……いま、二人ボロボロで死にそう……ここいるはずない……でも!」
キューが目に涙を浮かべながら異形たちを見つめた。
混じり気のない感情が、幼子の頬をつたい落ちていく。
「二人もカルディエとヴァニタスだって……キューの心……そう言ってる……あなた達がとても苦しんでるって……そう言ってる……どうしてなんて分からない……でも……でも!」
キューが頭を首を横に振る。納得出来ない理不尽を弾き飛ばさんと、幾度も、幾度も。
「キューは……キューは助けたい! 二つの『カルディエとヴァニタス』を! キュー、家族、助けたい!」
キューは気づいただろうか。
悪霊が……カルディエが、大きく身を震わせたことを。
幼子の嗚咽が薄暗い部屋に響く。
悪霊の手が開き、キューの頭を撫でようとする。震える指先に宿る感情は、悪霊が心を宿す存在だという証左であった。
しかし、悪霊の指が閉じられ、固い拳を形作る。
決別の意思表示なのかも知れない。
なにか、とても大切なものとの、未来永劫の。
「……すまない」
「え……?」
「本当にすまない」
悪霊が何に謝っているのか、キューには分からなかった。
「……お前を利用させてもらう」
キューの体がびくりと跳ねた。
空気が変わったのだ。
突如、キューの鼻が腐り果てた魚の臓物臭を感じ取った。悪意とは、無味無臭ではないらしい。
「より正確に言えば」
カルディエが……もはやこれは相応しくない名称であろう。悪霊がキューに近づく。
「お前の子宮を利用させてもらう」
おぞましい計画を無感情に告げた姿は、キューの愛する家族の陰など微塵も纏ってはいなかった。
悪霊は語り部として物語を紡ごうとしていた。
見捨てられた物語の、憐れな記憶の残滓として。




