12月:鬼と血と - 4
そして訪れる2日目の朝。
これで寝坊の挙句に大遅刻、遅刻では済まず置いてけぼりを食らった、となるのもまたひとつの人生であろうが、今朝は時間にうるさい蜘蛛時計が珍しく丁寧に起こしてくれた為、全ては平穏無事に進行していった。
移動疲れで早めに就寝したのが功を奏して、強烈な時差ボケにも襲われずに済んでいる。普段と異なる時間帯に活動している時の、頭の奥がわんわんと唸るような違和感は幾らかあるものの、活動に支障をきたすほどではない。
相変わらず低い気温は想定内。こちらは厚着で対抗。
順調、順調と、昨晩の残りの水を喉に流し込みつつ、想子はにんまり頷いた。他のツアー客に混じって座席に腰かけ、周囲に荷物を配置し、ようやく朝からの小騒動に終止符を打つ。
「では九縄、着いたら起こしてくださいね」
「おい寝る気か! 道中の景色は!」
「はっ!」
習慣とは恐ろしい。
昨日一昨日の移動に引き続き、またも大移動の開始である。
折角引けた移動疲れがぶり返すのではという危惧は、杞憂に終わった。今回の移動は地上である。見渡しても見渡しても雲、たまに海と陸という飛行機からの眺めとは違い、手の届く位置で目まぐるしく変わっていく異国の風景は、それだけで心を昂ぶらせる。物珍しさという最高の味付けによって、長い長い移動時間にも退屈はせずに済んだのであった。
たまにウトウト舟をこぎかける事こそあったものの、要所要所で九縄がしっかり突付いて起こしてくれた。何だか本当に優しいなあ、と、想子は密かにくすくす笑っていたとかいなかったとか。
ちなみに移動中及び居眠り中の手荷物の安否について、想子は全く心配していなかった。それはそうだろう。海外だろうが国内だろうが、持ち去ろうと手を出せば、最悪出したその手が無くなりかねない。
流石に九縄もいきなりそこまではしないとしても、盗まれる心配は要らない。治安を気にせずに海外を歩き回れるというのは、考えてみれば有り難い話であった。
そして。
車窓の遙か先に、青白い三角の影が浮かび上がった時、車内に小さなどよめきが起きた。
聞き覚えのない言語と、聞き覚えのある言語とを交えて。
共通するのは、それらどれもが大なり小なり熱を帯びた口調だという事。たとえ囁き交わす会話の内容こそ分からなくとも、その熱が乗り合わせた皆の興奮を伝えてくれる。
車は進み、影は濃さを増し、熱は熱を呼ぶ。
翼を水平に開げた鳥が、バスの真横を弧を描いて飛んでいく。
肉眼で建物の姿が視認できるまで近付くのに、さしたる時間は要さなかった。
灰色い干潟に浮かんだ島。
一面の砂地の向こう側に佇む、静寂の城塞。
空と海とに挟まれて、悠然と聳える岩山が、変わり易い天候と強い海風にも動じない、磐石の構えを示している。
島を囲む石壁と低塔。あたかも天を目指すかの如き螺旋に沿って築かれた街並み。斜面から覗く草木の緑。
そして頂に立った、圧倒的な存在感を放つ修道院。
見るからに堅固で無骨な外観は、祈りを捧げる場というよりは、敵を迎え撃つ軍事用の砦を思わせる。
砂漠の城めいた外観に、派手さは無い。が、その街と一体化を果たした整然たる調和ぶりは、荘厳にして繊細であり、島全体が精緻な彫刻であるかのようだった。神を信じぬ者であっても、その威容に立ち竦み、震えずにはいられないだろう。
天を突く尖塔に掲げられるは、この修道院を作るよう告げたと伝えられる、大天使の彫像。太陽に照らされし、その神々しき輝きが、聖地と呼ばれるこの島の隅々にまで、あまねく降り注いでいた。
始まりを遡れば8世紀まで。
宗教と政治の狭間で、数奇な運命を辿りつつ生き長らえてきた修道院。
遠い昔、この地に降臨した大天使の名を冠し、西洋の驚異と讃えられる、国家を、否、世界を代表する歴史の遺産。
モン・サン・ミシェル。
島へ続く道の手前で、想子はバスを降りた。
他に比類なき大パノラマの眺望に、知らず、息を呑む。
だいぶ離れた位置にあるというのに、気付けば見上げるような姿勢をとっている。壮大なる景観美には、それをさせるだけの力があった。
島を取り囲む海岸線に、褐色がかった牧草が茂っている。
写真にあった草を食む羊の姿は、今は見えない。
数世紀に渡る多種の建築様式の混ざり合った増改築の末、遂に完成した修道院は、以来、巡礼の地として栄え、数多くの者が聖地と呼ばれるこの島を目指す事となった。
激しい潮の満ち引きにより、不運な巡礼者達を飲み込んできたという湾を臨み、想子は抑え切れぬ歓声をあげる。
「テレビで見た景色だー!」
あんまりな言葉で感動を示す想子に、九縄がガックリと項垂れるような仕草をみせた。
「お前なあ……もう少し趣きある表現を使えよ」
「写真撮りましょう、写真! あとビデオも……ええと、動画モードは……」
カメラを取り出そうとした手が、そっと九縄に抑えられる。
一本の糸によって。
「くじょ……」
「レンズ越しは最後で良かろう。
まずはその顔に付いているふたつの目で、曇らせずに見ろ」
「……はーい」
九縄にというより自分に苦笑いして、ひとまず想子はカメラを引っ込めた。
確かにその通りだ、返す言葉もない。
時間の経過と共に、如何に珍しい景色にも次第に慣れてくる。撮影を終えてから見ようと、見終えてから撮影をしようと、写真及び映像が手に入るという結果は同じなのだから、だったら、最大級の感動が持続しているうちは、妨げる物のない素の瞳で見ておいた方がいい。悪い事をした訳ではないが、惜しい事をするところだった。
とはいえ、その希少な持続時間は長くない訳で。
想子は取り出したビスケットの袋を開け、ぼりぼり齧って感想を漏らす。
「うーん、異国情緒あふるる味……」
「素直に大味だと言え」
「いや美味しいですってば。
素朴で、こう、いかにも外国のお菓子!という感じの匂いと食感が」
あの長い移動の途中、休憩で立ち寄った村にてつい購入してしまった品だ。ついでと呼ぶのは失礼な程、あそこも面白かった。村全体が玩具のようで、実に可愛らしい作りだった。機会があれば、また行ってみたいとさえ思う。
そんな玩具のような村の、童話のような店で、こぢんまりした包みに入った菓子やジャムを目の前に並べられては、財布の紐を緩めないのが難しいというもの。
「帰国してから食っても、果たして同じ感想が出てくるかな」
「むむ……旅の味付け、プライスレス……」
幾許か真実を突いている九縄の指摘に、想子が唸る。
食べながら周囲を眺め回してみると、ホテルや島へ直行せずに、暫く付近に留まっている人が案外多い。内部も素晴らしかろうが、何と言ってもこの岸からの光景こそが世界に名を馳せているのを考えれば、実に納得できた。
人種性別年齢と、多様な人々の中で唯一、一様なのが服装の傾向である。皆、たっぷり着込んでいる。想子も、昨日から更に一枚下に増やしていた。九縄の隠れる場所が多くなるので、厚着で損はしない。
2枚目のビスケットに伸ばそうとした手を、想子は元に戻した。
「――来ちゃいました、ね」
「ああ、来たな」
昨晩と変わらぬ遣り取りが、再び為される。
まだ実感の沸かなかった昨日と違うのは、そこに現物が聳え立っているという事。
「来たんだな」
「駄目ですよ九縄、感極まって泣いては」
「泣くか阿呆」
そっけなくではなくて、やや怒ったように九縄が言った。
それが面白く、想子は島を見たまま少し笑う。
天の命により築かれた聖堂。
だが、あれを見て天上に座す神の威光と、歌い讃える天使達を直接に想像できるかというと、やや迷いがある。むしろこの荘厳な岩山と建造物にこそ、そう、この地上にこそ神は宿っているのではと感じてしまう。
「……なんて思うのは、失礼でしょうか」
「そうでもなかろうよ。我らの国において、神は高い空の上からこちらを見下ろすよりも、どちらかといえばその辺りをうろついていたり、便所や台所や裁縫針に宿っていたりするものだ。お前が岩山にこそ神を感じたとて、なんら不思議はないさ」
「同じ神秘性でも色々ですよねぇ、本当」
などという会話をしていた時、ぶわっと強烈な風が吹きつけてきた。
堪らず首が縮む。鼻の頭がツンと痛くなる。
海からの塩をたっぷり含んだ風は、今にも皮膚を切られそうな冷たさだった。
「さむーい!」
「大丈夫か?」
「けど、気持ちいいです! やっぱり日本の空気とは違いますね。飛行機を降りた直後にも感じましたけど、とにかく風が、空気が違う!」
匂い、流れ、肌に触れる湿気、何もかもが異なる。
単なる思い込みであるのも否定できない。だが明らかに違う風が吹いているのを、こうして立つと確かに感じるのだ。大気に宿る精霊が、ここにもまた存在するのだとしたら。これは彼らの性格の差、という事になるのだろうか。
それにしても、寒い。
寒いというのに、その厳しい寒さが、むしろ爽快でさえあるのが不思議だった。
それは先の空気の質の違いの他に、多分に心の影響が大きい。何とか連れて行ってあげたい、行ってみたい、ずっと心の隅に引っ掛かっていた事をようやく果たした喜びと興奮が、あらゆる事象をプラス方面へ押し上げている。同じ温度の風を住み慣れた国内で味わえば、ただ寒いだけで勘弁して欲しいとぼやき始めるであろうから、気分というのは、まこと偉大な調整機関である。
どちらにせよ、宿に着いたら暫し身体を暖めるのに専念した方が、健康上良さそうだ。
「そうか、お前はそこに違いを見るのだな。
儂は土だ。大地より伝わる気脈の差異を、降りて真っ先に感じた」
そしてここでも、と言う。
「土ですか、それには気付きませんでした。
これも人間と土蜘蛛とでは異なる感覚のひとつ、という事ですね」
「そうだな。だが、そう言われてみれば、これは大気の方にもだいぶ細かな差があるな。お前に言われなければ、土ばかりに気を取られていただろうが」
「でしょう?」
「違うな。ああ、これは違う」
繰り返し九縄は呟き、己を包む世界の変化を噛み締める。
想子は想子で、九縄が違うと言った足元を、とん、とん、と踏んでみる。
返ってくるのは、舗装された道路の固さだけだ。土を探して同じ事を試してみても、特に違いは分からない。踏み心地は異なるのかもしれないが、それは単純に立っている場所の差、土の質の差だけで、九縄の言う気の流れまでを感じ取れはしないだろう。九縄が想子の言葉で大気に注意を向け、そこに在る差を感じ取ってみせたようには、なれない。
自分がその類の力を持っていないのだから仕方ないが、少し残念に思った。
自分の言葉を九縄が聞いて、試して、伝えてくれたのを、かなり――嬉しく思った。
「ね、九縄……」
「ん?」
「そういう、お互いに違う……違いそうな感覚について、どんどん教えあっていきましょうよ。何を見て、どう感じたか――。そのたび話していれば、今みたいに、普通だったら知り得ない違いに気付く事だってあるかもしれません」
心が、勝手に唇を動かす。
もとより生物として異なる者同士、相手の見ている世界をそのまま感じられる筈がない。しかし完全には分かり合えないまでも、ああそうなんだな、と思う程度には、知る事ができるかもしれない。
分かる事ができないなら、知る事だけでもできれば。
役に立つ事、役に立たない事、どちらでもいい。両方だっていい。分かったような気になれる、知ったかぶれる、たかがそれだけの事が、いまやどんなに尊いか。
九縄は、肯定しない代わりに否定もしなかった。そんな面倒な真似をしていられるか、くらいは言われると思っていたが。
「もっと、色々な所に行ってみたいですね」
世界は、一生をかけても見切れない程のもので溢れている。それは人の一生でだけれど、九縄なら、いつかはそれら全てを回る事だって不可能じゃない。
たとえ、そこにわたしの姿は無いとしても、いつかは。
「もっと……」
小柄な靴が、かつんと道を踏む。
「もっと、色々なものをあなたに見せてあげたい。そうしたら――」
鮮やかな金糸が、光を撒き散らして踊る。
その眩い黄金の輝きに吸い寄せられるように、自然と想子の顔はそちらへ向いていた。
絵画より切り出した光景が、そこにあった。
並び、あるいは塊になって言葉を交わしあう観光客達に紛れ、一人の少女が、沖にそびえる島を眺めている。
小さい。背丈が低いというより、単に子供なのだ。人種が違うのではっきりとは判定しにくいが、11歳か、12歳かといった辺りだろう。日光の当たり具合によって、横顔はもっと幼くも見えれば、時折ひどく大人びても見える。
だが年齢より何より、想子の視線を釘付けにしたのは、少女の、際立って美しい容姿であった。
緩く波打つ長い髪は、磨き抜いた黄金。整えられた前髪の下で、完璧な造形の瞳がガーネットを思わせる色に輝き、透けるような白い肌は遠目にも染みひとつ無い事を確信させる。
それは、子供がその若さ故に誰しも持つ美しさとは明白に区分された、選ばれた者の美だった。選りすぐられた一握り、否、一摘みの存在だけがそれを持って生まれてくるを許される、至上なる美貌。
幼くも均整の取れた体付き。
赤と白を基調としたドレスが、無駄など一切無い肢体を包む。
意匠は豪奢だが、スカート丈をやや短くし、更にはボリュームを減らし、活動性を損なわないようになっていた。
同じ外でも、こんな吹きさらしの場所にいるよりは、宮殿内で大輪の薔薇が咲き誇る庭園に立つのが相応しい。黄金と水晶で装飾を施したガラスケースに入れて飾っておきたくなる誘惑に、駆られぬ人間は少ないだろう。
ただただ、可憐であった。
想子の首は横を向き、風で縺れたうなじの毛を掻き上げようとする姿勢のまま固まっていた。やがて半開きになった唇から、はああぁ、と、意識せずとも溜息が漏れる。
「ね、ね、九縄、見ました? 美少女ですよ、びしょーじょ!」
「見えておったよ、はしゃぐな」
「すっ、ごーい……モデルさん……? 何かの撮影でしょうか?」
きょろきょろ首を回し、スタッフらしき影がないか探す想子。
冷静に考えれば、いる訳がない。それはすぐ分かったものの、はぁだのへぇだの感嘆しながら、やや離れた場所に立つ少女を鑑賞するのは一向に止めようとしない。
九縄はといえば、熱心な想子とは正反対の冷めた態度だった。
それは蜘蛛なのだから、人の容姿の美醜に感情が動かぬのも、当たり前といえば当たり前なのだが――。
「髪も綺麗、肌も綺麗、目も唇も爪も……どこもかしこも宝石みたい……。住む世界が違う、って感じですね……」
まだ言っている。
実際、幾ら誉めても飽き足らない容姿なのは間違いなかった。
己よりも美しい同性に対して、素直に憧れると同時に、何がしかの黒い感情が湧き起こる人間は多くいる。が、あそこまで際立って突き抜けていると、妬む気持ちも起こりようがないらしい。
「いいなー」
「お前とて整った部類の顔立ちであろうに。そこまで羨ましがる事かね」
「え、ええ!?
…………あー、と、九縄が、そう思うって事ですか?」
「人間の基準に照らし合わせての話をしている。何を慌てておるのだ?」
「いえ……その、九縄に言われると、何かどうも……」
想子は微妙に落ち着きを無くしていた。
一時、あれだけ熱心に眺めていた少女からも完全に注意が外れる。
「そ、そうだ! 今日はですね、ここのホテル泊まりなんですよ! 明日夕方の出発まで、時間はたっぷり取れます。飽きてうんざりするくらい、心に焼き付けていきましょうね」
「毎度、極端から極端に走る奴だな。
だが、その余裕あるスケジュールには賛成だ」
「記念すべき最初の到着地点、これからのスタート地点ですものね。腰を据えてじっくり見て回りましょう。お土産も欲しいし、そうそう、夜景も楽しみですよね」
「ああ、対岸からの眺めは見事らしいな」
「人と自然とが造り上げた芸術品、ですね」
あ、と想子の表情が固まる。
「どうした?」
「芸術品といえば……」
「おい……」
「はー……やっぱり綺麗……」
またか。
九縄は流石に呆れる。
戻した注意の先で、金と赤の少女は変わらず海を見詰め佇んでいた。
これでは世界遺産を見に来たのか、外国の少女を見に来たのか分からなくなってくる。この直後に崩れて消えるという訳でもない島より、今はこちらに専念すべきといえばそうなのかもしれないが。
「……それにしても、人にとってはあれが美貌とやらなのか。
儂の眼には鬼の面相に見えるがね」
念願の聖地にて過ごす時を前にしているにしては、やや憂鬱そうに九縄が呟いた。
それを聞いているのかいないのか、頻りに少女の方を向いてはその度に見惚れ、感心するのを再開した想子は、果たして気付いていたのであろうか。国籍性別問わず唸らせる程の美貌を、周囲の人間は誰一人気に留める様子がなかったのを。




