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八握の檻  作者: 田鰻
一部
8/416

12月:ひとり聖夜

ベランダにてひとり、天に燃える火を見る。


「こんな夜でも、この辺りは静かですね……」


夜風が、頬から首筋をさっと撫でていく。

想子は肩を縮こまらせ震えたが、その凍えそうな鋭さには心地良さもある。

乾いた空気の中に、ほんの僅か湿り気が混じっていた。

想子は空を見上げた。暗い空は端から端まで晴れ渡り、今日という日に華を添える雪雲の影は見られない。

渦巻く光の間を縫い、一筋の流星が駆け抜ける。


「夜の空。果てしなく広がるは、星々の輝きのみ。一個一個の光が、宇宙の輪郭を浮かび上がらせる。何百年も、何万年も昔の光が、こうして今、我々の生きる地球に届いている……なんてロマンチックなんでしょう……」


ほぅ、と切なげに吐いた息が、白い塊をつくる。

想子は穏やかな気持ちで微笑むと、ワイングラスを傾け、満点の星空に乾杯した。


「――メリー・クリスマス」

「今年も一人だったな」

「うわあああぁぁあぁああんん!!」


絶望のまま、想子はベランダに突っ伏した。手から零れたワイングラスは、落ちて割れる前に背後の九縄が素早く糸で絡め取っている。崩折れた姿は、まさに満身創痍。恨みがましい目付きで睨んでくる想子に、用が済んだなら閉めろと冷淡に言い放つ。

種にもよるが、蜘蛛の多くは寒さを苦手とする。妖怪となり悠久の時を生きてきた九縄といえど、それは同じ。それによって弱ったり動けなくなったり凍え死んだりする事はないが、生理的に好まないのは変わっておらず、ましてや想子のように、わざわざその中に飛び出していくような酔狂は持ち合わせていない。想子がベランダで現実逃避という自分の世界に浸っていた間も、九縄はずっと部屋に篭ったきりであった。

わなわなと震え、ありもしないハンカチを噛む真似をしてみせながら、想子が叫ぶ。


「どうしてッ!? どうしてあなたはそうやって、無慈悲にとどめが刺せるのです!?」

「儂は昨日までのお前の歴史と、今日新たに刻まれた歴史とを有りの儘に語っただけだ。客観視された只の事実に慈悲も無慈悲もあるかよ」

「それにしたって、もっと他に言い方というものがあるでしょう! 言い方というものが! こ・と・し・も・ひ・と・り・だ・つ・た・な。たった11音で人生19年全否定ですよ! 割ったら1音あたり……ええと……」

「約1.73年だ」

「約1.73年ですよ! 背負わせすぎ、酷使しすぎでしょう! せめてもっと労働量を分散させてくれたって!」

「お前が太刀塚として現世に生まれた日から今日この日12月24日クリスマス・イヴ、本来キリスト誕生を祝う記念日を、一人で過ごさなかった事は一度として無かった。表現に正確を期すならば血縁の人間と過ごした事はあったが、友人及び恋人及び夫婦関係にある人間の男と共に過ごした経験は正真正銘一度も無い。これで193音、1音あたり約0.10年だ。彼らの労働環境は改善されたかね」

「そろそろ許してくれませんか」

「やれやれ……」


想子の足首を糸が掴み、室内へ引き摺っていく。ぐんにゃり伸びた想子は抵抗する気もないらしく、ああとかううとか唸りながら、されるがままになっている。

ピシャリと音を立ててベランダに通じる窓が閉められ、ようやく部屋に暖気が戻り始めた。


「しかし儂も学んだよ。こうして人間の多い都会に出れば男なぞ際限なしに食い付いてくると思うておったが、必ずしもそれが万人に当て嵌るとは限らないのだな。やはり行ってみねば分からぬ事も多い」

「……緩やかに追撃しないでくださいよ……もー……あ、メールだ」


充電中の携帯電話まで尺取虫のように這って進み、首だけ持ち上げて画面を確認する。


「柳田さんですね」

「あの娘か。何の用だ」

「わかりません……ひょっとして、わたしと同じ寂しいクリスマスを過ごしていて、この嘆きを共有しようと……」


幾許かの後ろ向きな期待感を胸に、想子は受信画面を開いた。



『受信メール 12/24 19:23

from:ヤナギダ 件名:楽しんでるかぁ?

さっきこっちついた。人すごいいるよ。あとめっちゃ寒い。ノブくん鼻たらしてる(笑)

イルミネーションやっぱ綺麗だわ。人気スポットなだけあるね~じゃね。良きクリスマスの夜を!

P.S 早く彼氏作れよ★☆。.:*』



「……九縄、あなた呪いの類は使えましたっけ」

「儂は斬るか操るかの専門だと知っておろうに」

「それはどんな物でも断ち切れますか。例えば運命の赤い糸などは」

「ひとまずお前は落ち着け」

「みんな……敵です……敵ばかりです……」


その言葉を最後に、ぱたりと手と頭が床に落ちる。

仮に男から誘われていようと、未来が不確かな身で子を残すつもりも、その前に伴侶を求めるつもりもなく、親しい間柄の人間を作るのさえ危険視している想子にはどちらにせよ断る以外の選択肢は存在しないのだが、それでも、そういった話が一応は有ったというのと全く無かったというのとでは、本人の誇りにとって雲泥の差がある。

空っぽの経歴が燦然たる光を放つ。なんだか涙が出そうなのは、強すぎる光が目に沁みるからだろう。衰弱した今の身体では耐えられない程に、その輝きは眩しくて、眩しくて――想子は、そっと静かに瞳を閉じた。


「おい、寝るんじゃない。これはどうする」

「……返信する気も起きません。適当にあなたが何か返しておいてくださいな……九縄」

「ふざけるな、儂から何を返せと」

「この……今のわたしの姿から感じ取れる全ての感情を、言霊に転じてぶつけるのです。哀しみ、怒り、やるせなさ……そうした重々しく苦しい、見る者誰もが、心を締め付けられざるを得ない全てを」

「儂には浜に打ち上がった昆布かマグリットの描く魚にしか見えぬわ」


ぶつくさ呟きつつ、九縄は転がっていた携帯電話を招き寄せた。

暫し、足先と糸とによる二重奏が響く。


「送ったぞ」

「って、できたんですか」


想子が目を開ける。


「やれと命じたのはお前だろう」

「そうかもしれませんけれど、携帯やメールの方法なんてどこで」

「眺めていれば覚えるさ。使ったのは初めてだがな」


いつもの事だが、習得が早い。

その柔軟な思考と高い記憶力に敬意を表し、想子は手を着いて腰から上を起こした。引き摺られた際に服に付いた埃を、摘まんで捨てる。


「……ちなみに、どんな文を?」

「地獄に落ちろ」


それが耳に届いた瞬間、想子は口の中のものを噴出しかけた。

口内に何か残っていたかというと何もなく、つまりそれは単純な空気の漏れとなって唇を揺らしたのだが。

さすがに少々、呆然とした口調となって九縄を問い詰める。


「そ、それはちょっと……いいえ、ちょっとどころではなく過激なのでは?」

「角が立たぬようにはしておいた」

「はあ?」


らしくない九縄の言葉に、想子から頓狂な声があがる。角が立たぬように、と言われても、どうすれば地獄に落ちろを角が立たぬように出来るのか。その不可解さに首を捻ってから、想子は送信履歴を表示させた。



『地獄に落ちろ(^ ^)』



「……余計に刺々しくなっているような気がしますが」

「文句があるのなら自分でやれ」

「まぁ、いいですけどね……」


いいらしかった。

角が立たぬというより角で滅多刺しといった風情の文面であるが、概ね伝えたい内容に忠実ではあったようだ。相手の性格は想子も知っている。明るく噂好きで、冗談を冗談と受け止め、言葉の背景を正しく読み取れる人だから、後々こじれる心配も、まず無いと判断した。よってフォローはしなくても大丈夫だろう。まさか蜘蛛から送られてきたメールだとは、本人は夢にも思っていまいが。


「……ケーキでも食べようかな、他にやる事、ないですもんね」


なかなか、言う者と聞く者とを同時に虚しくさせる台詞である。

テーブル上には、熟れた大粒の苺をこれでもかと盛り込んだデコレーションケーキが、威風堂々と鎮座していた。それ自体は見事なものだったが、何分この散らかった部屋の中央にぽつんと置かれていたのでは、雰囲気を明るくするどころか、却ってその豪華さが全体の侘しさを助長するだけだった。

そこから一切れを三角形に切り抜き、小皿に取り分ければ、ショートケーキの王道を行くイチゴショートの完成となる。二段になったスポンジは見るからにしっとりと焼き上がり、その間から覗く生クリームと苺が理想のコントラストを描く。ひと口、口に含めば、上品な甘さのクリームと、なめらかに溶けていくスポンジと苺の酸味とが奏でる天上のハーモニー。

と、どんなに褒め言葉を重ねても消えてくれない胸の空洞は、一体何なのだろうか。想子は遠い目になった。フォークの先端で三角形の頂点を突き崩しながら、傍の蜘蛛に相伴を勧めてみる。


「九縄も食べていいですよ。わたし一人で、こんなに食べきれませんし」

「菓子は口に合わん。だいたい食い切れんのが明らかな量を、何故買ったのだお前は」

「ううっ……だって一切れ二切れ買ったら、いかにもこいつ一人で寂しくクリスマスやる気だなって思われるじゃないですか!」

「考えすぎだ。一年でケーキ屋が最も忙しい日に、いちいち注文内容など気に掛けている暇な店員がいるものかよ」

「えーえーいいんですよもう! どーせわたしなんて店員にさえ気に掛けられないクリスマスにも暇な女です! ちくしょうばーかクラッカーで撃ってやるぱーんぱーん」


火薬が弾け、想子の構えたクラッカーから、九縄に向けて大量の紙テープと紙吹雪が発射された。ひゅるひゅるひらひらと宙を舞うそれらは、だが九縄の身体に達する前に、その糸によって悉く斬り払われ――

――はしなかった。紙テープと紙吹雪は何ひとつ抵抗を受ける事なしに伸び伸びと空を飛び、やがては重力に導かれるまま、儚く落下していった。

九縄の真上に。

何本もの紙テープが胴を縦断し、折れ曲がった脚から垂れ下がり、煌びやかな紙吹雪が袋状の腹部に星を散らす。

そうされながらも尚、九縄は行動しようとしなかった。その身に振り注ぐ一切を、厳かな沈黙を以て受け止めていた。

一瞬後、そこには色彩豊かな装飾を施された大蜘蛛の姿があった。トナカイやスノーマンのそれと比べ、これがクリスマス用として一般家庭に浸透するには、価値観の突然変異をあと1000年は待つ必要があるだろうが。


「………………」

「………………」


全てが終わったのを確認すると、九縄は無言で身体の掃除に取り掛かった。絡まった紙テープから一本ずつ脚を外し、頭に、腹に、眼の上に貼り付いた紙吹雪を、爪で一枚一枚払い除ける。それらはまさしく、野生の蜘蛛が古い殻を脱ぎ捨てるかの如き、緩慢かつ着実な動きで行われた。取り除かれたゴミは、紙テープは紙テープ、紙吹雪は紙吹雪に分けられ、九縄の横に並べられていく。

九縄は喋らない。

想子も喋らない。というか、喋れない。

途中、手を伸ばしかけたが、物語らぬ九縄の迫力と場の緊張感に打たれ、引っ込めた。自然と居住まいが正されていき、いつしか背筋を伸ばし脚を揃えた正座の姿勢となっている。

作業を終えてから、ようやく九縄が想子に向き直った。


「楽しかったか」

「…………」

「満足したか」

「あの、すいません。なんか本当にすいません。せめて声を荒げる等してくれないと、そろそろわたしどうしていいか」


九縄は脇のゴミを団子状に丸め、ゴミ箱に放り投げた。

あはははと乾いた愛想笑いを漏らし、思い出したように硝煙の匂いを手で払う想子。


「……ケーキが食べたくないのでしたら、シャンパンはどうでしょう」

「蜘蛛を誘うなら、甘い水より苦い血を用意するのだな」


折り畳んでいた牙を開き、たん、と床に突き立てる真似をしてみせる。


「それとな想子、お前の持っているそれはシャンパンではなくシャンメリーだ」


九縄の指摘に、想子がきょとんとし、何度か目を瞬く。

派手な色をした瓶と地味な褐色の大蜘蛛を交互に見比べてから、こめかみを人差し指で押す。遠回しな言い方をする事も多い九縄だが、これは直接的である。想子にしても、九縄の言葉を反芻しているというより、単純に何を言っているか分かっていない故の行為だと考えるのが良さそうだろう。


「……そこに何か大きな違いが?」

「つまりジュースだ」

「……ええ、ジュースですけど」

「……いや……シャンパンというのは……まあ良い」


どことなく落胆したように、九縄は言った。ぱちぱちと音を立てるワイングラスを透かして、平たい姿が更に横に広がって見える。

結局、良く分からないまま、想子はグラスを口に運ぶ。人工的な甘味と弾ける泡の粒が、喉を洗っていった。糖分は精神を安定させ、脳の疲労を回復させるという。飲んですぐさま、の即効性があるかというと疑問だが、ともあれ炭酸の刺激と清涼な喉越しは、おかしな方向へ熱くなりかけていた想子の頭を冷やし、落ち着きを取り戻させるに充分だった。取り戻したところで目に入ってくるのは室内の直面したくない現実ばかりで、いっそのこと我を忘れたままでいた方が、当人にとっては幸せだったのかもしれないとしても。


「……それにしても」


急に静かになった空間を見回し、感慨を込めて零す。


「慌ただしかったりもした、そんな今年も、もう終わりなんですね」


この一年で、ここにも随分と馴染んだ。少なくとも、家、という単語から、この部屋を思い浮かべてしまう程には。それだけ故郷から遠くなったようで、想子は一抹の寂しさを覚える。しがらみから半ば逃げるように出てきたとはいえ、故郷は故郷だ。明るい思い出に恵まれていなくとも、生まれ育った地を忌み嫌う事はできない。

九縄はどう感じているのか、ふとそんな想いが想子の頭を掠めた。代々の当主に付いて外へ出る事は度々あっても、ここまで長い期間、一箇所に定住するのは初めての筈だ。想子の知る限り、家を出た当主は想子しかいない。

たまには、あの土地と屋敷を懐かしく思ったりする日もあるのだろうかと。

だが次に口を開いた九縄の声音から、望郷の念らしき感傷の類は一欠片も感じ取れなかった。

表面上は。

内面までを覗くには、8つ並んだ蜘蛛の眼はどれもが黒すぎる。


「まだ一週間残っているだろう。特にお前にとっては、大晦日の大掃除という大物がな」

「……大が三つとは、また手強そうな……。

ねえ九縄、その一週間は無い物と考えて、お正月までひとっ飛びという訳にはいかないでしょうか?」

「そうしたいならして構わぬが、その時お前はまたひとつ大切な何かを捨てる事になる」

「そういう心に刺さる脅迫はやめてください」


九縄が低く笑った。

人が人を見放した時の笑い声にも聞こえる。


「少しは効いたか?」

「効きましたよ。年越しの時くらい、お説教は抜きにして欲しいものです」

「既に独自の年越しに突入しているあたり、微塵も効いておるように思えんわ。言った側からお前は……」

「あけましておめでとうございます」

「越えるな!」


またひとつ大切な何かをあっさり捨てた想子は、再びグラスを口に含む。

何もない天井を見上げ、先程の流星を思う。さて願い事は、遅れてしても有効かしらと益体もない思考に浸りながら。


しかし。


汚い部屋である。


気取ってグラスを傾けようが流星を思おうが、汚いものは汚い。

普通に生活をしているだけなのに、何故気付くといつも汚れているのか想子は不思議だった。九縄に尋ねても、ゴミをそこらに放り投げるからだ、という当たり前の答えしか返ってこない。そんな事は分かっている。分かっているのにも関わらず何故汚れるのかが肝心なのである。それは分かっている事をやらないからであろう。


………………


成る程、朧気ながら理解した。

自主的に片付けてくれる者が存在しないなら、日々汚れが蓄積していくのにも頷ける。九縄に数日置きの掃除を義務付けてしまえば早いのだが、絶対服従とはいえ守らねばならない最後の一線を意識し、実行には至っていない。命じられたら命じられたで淡々と役割をこなすだけだろうと想像すると、なおさらに。

思えばこの一年、掃除を抜きにしても、九縄には負担を強いっぱなしであった。

それを従える者と従う者、当然の関係と断言する者もいる。それに想子は納得しつつ、やや違っていた。たとえ記憶と魂に刻まれた恐怖があろうと、これだけ長く共にいれば、何がしかの情が生まれてくるのを否定はできない。九縄のような強大な化生相手に、その情に頼るのが極めて危険だというのは心底から承知しているが、それでも完全に捨て去る事はできなかった。すまない、と思うし、ありがたい、と思う。思ってしまう。

想子の中で、いつになく固い決意が形を成していく。よし、と歯切れ良く呟けば、その決意はますます強固なものとなった。床にいる九縄を見下ろす両の目に、光が点る。


「決めました、九縄」

「ああ?」


駄目押しで、ぐっと拳を握る。

生き生きとした、力に満ちた動作に、珍しく九縄が怯んだ。


「今年……じゃない来年の抱負ですよ。ずばり、部屋の掃除をしっかりやる!

どうですこれ、びっくりでしょう! わたしもいつまで、だらしないままではいられませんからね!」

「……そうか」

「…………」

「…………」

「……あれっ? リアクションが薄いですね、どうしました?

わたしはてっきり飛び上がって感激するか、驚きのあまり錯乱して8本脚コサックダンスでも踊り出すものだと……」

「……どうやら忘れているようだから教えてやろう。

まずはお前が十の歳に迎えた元日、今のと寸分違わぬ誓いを儂は聞いた。結果はというとだ、三が日の翌々日には、下働きの女が炬燵の上にあった餅の食い残しを片付けておった。

次はお前が十二の夏、今年の夏休みは家の掃除を手伝う、という大層な目標をぶちあげた。その三日後には、決して畳まれぬままの布団が部屋の中央で虚しく捲れ上がっておった。

更に十五の秋だ。この時は突発的に丸一日かけて庭の掃除に熱中し、翌日から繰り返される事はなかった。それから暫くお前の発作は鳴りを潜めていたのだが、つい少しばかり前に再発した。いつの話かは分かるな。そう、お前がこの部屋に移り住もうという、丁度その日の起床時にだ。『今日からは一人暮らしなのですから、身の回りの事は自分でやらなければいけませんね』という頼もしい言葉を、儂はしかと覚えておるぞ。ああ忘れはしないとも。そしてその日の夜には弁当と茶のゴミが床に横たわり、翌朝の朝日を反射して湖面のように美しく輝いたのだ」


九縄は忙しく口を動かした。

もっとも蜘蛛である九縄には、人間と同じ発声器官は備わっていないので、これは癖のようなもの。


「残り一週間……本当に、今年の抱負で終わりそうだな」


石化している想子を余所に、全幅の諦観を漂わせた、声なき蜘蛛の溜息が部屋に落ちた。


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