番外編:マドカ - 5
「水の……膜か!」
蜘蛛は呻いた。
円の、自分の攻撃が通用しなかった訳を、ようやく悟ったのだ。
龍の全身を、薄い水の膜が覆っていた。円の太刀を、蜘蛛の剣糸を鈍らせる程に強固なそれが、只の水である筈がない。
これこそが、龍の能力であった。表皮を這うように絶えず流れ続ける、厚さにすれば皮一枚か二枚という水流が、刃を受け止め、速度を削ぎ、衝撃を吸収する恐るべき防御壁の役割を果たしているのだ。
これがある故に、龍を斬撃で傷付ける事は極めて難しい。
龍の意思により張られた強靭な水の鎧は、単純な強度だけでも数枚を重ねた鉄の板に匹敵する。辛うじてそれを潜り抜けたとしても、身体を覆う極端に粘度の高い液体が刃を滑らせてしまう。
その下には、強靭な鱗と皮膚。更に表皮の下には、刃に絡み付き切れ味を落とす、分厚い脂肪の層が待ち構えている。水結界を突破して威力を著しく殺された武器は、二段、三段構えの盾の前に、いずれも無力となるのだ。
「ぬるぬるしてかなわん。なるほど、龍を斃すには剣でなく棒を用いろとは良く言ったものよ。底に沈んどったと思うたら、今度は殻の中か。よくよく閉じ篭るのが好きなやつじゃ」
「減らず口はそこまでにしておくのだな、娘――」
「おや、娘に見えるかの」
円は好ましげに笑った。
戯言を無視し、龍が首を大きく引く。
離れた位置にいる蜘蛛にさえ分かるほど、大気が水分を帯び始める。龍の周囲に、長きを生きてきた蜘蛛をしてもかつて触れた事のない、膨大な力が収束してゆくのが感じられた。
――いかん!
あれが何かは分からぬ。だが、途方もない何かが起ころうとしているのは確かだ。
力の向かう先は、考えるまでもなかった。目前に佇む人間、円。
迂闊にも呆然と見守るだけでいた己を悔やみつつ、蜘蛛は飛び出した。蜘蛛に、円の身を案ずる心は微塵も無い。ただ、交わした盟約が。従うを誓った魂が、主の窮地を救うを当然として、その身体を動かしたのだ。
しかし、決断が遅すぎた。蜘蛛が土を蹴るのとほぼ同じくして、それは完成を見る。
「貴様を殺すは恩情よ……。その穢れた身を爆ぜ散らせ、腐り爛れて土へと還るが良いわ!!」
一点に凝集された力が解き放たれ、巨大な水塊となって爆発した。
円一人を目掛け解放された水の霊気は、瞬く間に周辺全てを巻き込んだ濁流となる。
水が、更なる水を呼んだ。一個一個が人家程もある凝集された水塊が続けざまに落下、炸裂し、土を深々と抉り、石くれや岩をも飲み干した猛烈な山津波と化して、地にあるものを四方へ根こそぎ洗い流していく。
ただの水をぶつけられたのとは、訳が違う。それは龍が招いた水であり、力の結晶である。その水量は塊ひとつが小振りの池に相当し、威力たるや同程度の岩石の直撃を受けるのに等しい。
まともに食らえば、骨は折れ肉は潰れる。避けたとて、この水勢の中で立っている事など到底出来ぬし、倒れれば後は呼吸が出来ずに窒息するか、凄まじい速さで流れてくる土砂や木切れに全身を傷付けられた末、何処かに叩き付けられて死ぬだけだ。ひとたび荒れ狂った水の勢いは、誰にも止める事ができぬ。
たまたま水塊の落ちた近くに生えていた樹齢百年はあろうかという大木が、軋むような悲鳴をあげて半ばから挫けた。
「まど……!」
声は波に飲まれて消える。
蜘蛛の所まで波が来たのだ。激流に乗り迫ってくる折れた木は前肢で払い除けたが、それ以上進めない。小山のような巨躯の蜘蛛といえど、この流れの中では立っているのがやっとだった。
崩れていく土に脚を踏ん張り、必死に耐える。耐えながら八つの眼を凝らす。
いまだ爆発を続ける、狂乱する水を見下ろし、高らかに、誇らしく、水妖の王たる龍は笑う。
表情を作れぬ蜥蜴の顔に、確かな笑みが浮かんでいた。己の大切な棲処を荒らし、挙句に角を寄越せなどとほざいた、身の程知らずの愚か者を、抵抗どころか逃げる暇すら与えず完膚なきまでに叩き潰したと確信した為であった。これこそが龍の力。人や土蜘蛛の如き下賎なものでは到底達せぬ高みに立つ、支配者の力であると。
次はあそこで無様に這い蹲っている奴だと、龍が銀の眼を蜘蛛に向けようとした刹那。
轟く哄笑をも上回る音を放ち、渦を巻く濁流が消し飛んだ。
それはまさに、炸裂する水の中心で、別の何かが炸裂したかのように。
円形に裂けた波の中心に、円が立っていた。砕けた足場も物ともせず、犬歯を剥いて笑い、傲岸不遜に龍を見上げて。
剣閃が烈風をつくり、円の周囲の水がすり鉢のように抉られている。腕に、脚に、指先にまで満ちる闘気が、龍の呼び寄せる激流をすら押し退けて、円の、円の為だけの舞台をそこに作り出していた。
その手に握られた刀が、変化していた。
形状は変わらぬ。冗談めいた長さも目を奪う優美な曲線もそのままに、刀身が燃える如き輝きを放っている。陽光に映えた白き刃はいまや陽光そのものと化し、刃紋が帯びた水面の揺らめきは陽炎の如く。
それは熱を持たない。だが刀の発する鮮烈な殺意は、熱風に等しく龍の皮膚を焼いた。
熱無く灼熱する鋼。引き伸ばされた太陽の欠片。地上に具現せし日輪の剣。
「緋緋色金――!!」
龍の声は悲鳴に近かった。
「間が抜けとるが知ってはおったか。いやいや、流石は龍殿。そこは、山育ちなどこぞの野良蜘蛛とは違うの」
唖然とする蜘蛛にちらと視線を投げ掛け、円は揚々と言った。
分不相応な侮蔑にも最早怒るどころではなく 惨めに引き攣った声で龍が慄く。
「神代の遺物……意思ある金属が、何故ただの人の子に従っている!!」
「我が強さ故に」
正しく事実を告げ、円は跳んだ。
龍にとって致命的だったのは、たかだか人風情と見下すあまり、地上に接近しすぎていた事である。
並の人間ならば、それでも届くような距離ではない。しかし相手は並の人間などではなく、円であった。そして変貌した刀への驚愕と、円の口にしたあまりの内容に、即座に反応するのを忘れた。
時間にすれば、自失はほんの一拍。それだけあれば事足りる。
我に返った龍の眼前に、紅く輝く太刀を胸の前に構えた円の姿があった。
チリリリリリリリリ
刀が異様な音を立てる。
否、音にあらず。聴かされた者のみに判る――それは、声だった。
不規則に揺らめく表面がぐにゃりと嗤いの形に歪んだ時、龍は初めて絶望の叫びをあげた。
「シャアッ!!」
それに被せるように、裂帛の気合が円から迸り。
頭上より斜めに斬り下ろされた太刀が、一刀のもとに龍の片角を両断していた。
龍が幸運であり、また不運だったのは、円の第一の狙いが、命でなくて角であった事だ。
第一刀の軌跡に十字を描くが如く放たれた二刀目が、光の尾を引きながら龍の首筋から肩を薙ぐ。
龍の腕が、肘の上から切断された。結界を破り腕を落とした刀は、尚も勢い衰えず脇から胴へ袈裟懸けに斬り込む。刃より発した信じ難き剣圧が鎌鼬と化して、龍の胴体を、その長さのほぼ半ばまで縦に裂いた。
横真っ二つにならなかったのは、初太刀でなかった事、更に腕に阻まれて威力が若干とはいえ鈍っていた事、そして逃げようとした龍が身体をくねらせた為、狙いが逸れた事が原因であった。
結果、助かった。が、同じ目に遭わされれば、一体誰がそれを喜んだだろう。肩から腹までを縦に斬られて、まだ息がある。左右ふたつに分かれかけた身体に受ける痛みがどれ程のものか、いっそ殺してくれと願うに違いない。
腕が湖に落ちた。遅れて雷鳴を思わせる苦鳴が轟く。だらりと半身が落ちかけた身で、龍は想像を絶する激痛に悶えた。
断面から噴き出した鮮血が、空中で見る間に透明な水となっていき、滝のように湖に降り注いだ。
攻撃から落下に転じた円が、宙返りをしながら鋭く呼ぶ。
「蜘蛛!」
近くまで駆け寄っていた蜘蛛は、即座に反応した。
龍にとって、もうひとつ致命的だった事がある。
確かに龍は強い。生物としての完璧なまでの頑強さ。並の魔物では届くどころか足元にも及ばない妖力。
だが龍は幾ら強くても、戦いには不慣れであった。その強さと希少さ、水底に潜むという生態故に、龍に挑もうという者など滅多にいなかったし、仮にいたとしても、龍が力任せに暴れるだけで大抵の相手は死ぬのだ。
今、目の前に立つ相手は、そうした有象無象ではない。確かに、龍は強い。しかし戦えはしても、戦法を知らなかった。
一方、蜘蛛は人の戦い方を理解していた。望む望まないに関わらず、円に叩き込まれてきた状況判断が、考えるよりも先に、どう動くべきかの指令を身体に下していたのである。
龍は身を捻り、頭を下に水中へ逃げ込もうとしている。距離は、充分に近い。
「ええい!」
自暴自棄の色が濃い罵声と共に、蜘蛛の足先から次々に糸が飛んだ。苦痛のあまりに集中が途切れ結界が解けた身体に、九本の糸が絡み巻き付き縛っていく。厚い粘液は残っているが、その程度ならば妨げにはならない。
最後の糸が後肢の踵を捕縛し終えるのと、炸裂音をあげて龍が湖に潜ったのは、ほぼ同時であった。
「ぐ、お……!」
凄まじい力で全ての糸が引かれ、たちまち蜘蛛の身体がずずっと前方へ持っていかれる。
龍の巨体は、単純な筋力だけでも蜘蛛を上回る。重度の負傷により弱っているとはいえ、その力は決して侮れぬ。
蜘蛛は力の限りに踏ん張りつつ、脚を高く持ち上げ、杭とすべく地面に打ち込んでいった。
が、ただでさえ砂混じりで脆い湖岸の土は、龍の起こした水流でぬかるみ、いまや沼地のように崩壊しており、ほとんど固定の役には立たない。そうしている間にも龍は水中で激しく右へ左へ泳ぎ回り、糸を振り解こうとしていた。
蜘蛛の全身が、それに引かれてがくがくと揺れる。龍の動きで、九本の糸がより合わさって一本の束になる。視界が上下にぶれ、爪が泥を削り、死に物狂いで陸上に踏み止まろうとする蜘蛛を、じわりじわりと湖へ近づけていく。
力負けしているのは明らかだった。このままでは糸が千切れる前に、脚が根元から抜ける。そうならなくとも、確実に引き摺り込まれるだろう。蜘蛛は吼えた。己を鼓舞し、あらん限りの力を振り絞って耐えつつ、有効な手段を考える。しかし考え付かない。付く筈がなかった。さりとて離す訳にもいかない。それは円の意思に反する。
「――なぁにをしておる、だらしのない」
間延びした声。
すぐ側に、円が来ていた。刀は既に鞘に納まっている。
状況をまるで読めていない態度に、蜘蛛が腹を立てるよりも判断を仰ごうとした矢先、むんずと、糸のより合わさっている辺りを円が片手で掴んだ。
あらゆる抵抗が、止まった。
脚と全身にかかっていた負担が、嘘のように軽くなる。円の拳の向こうでは、相も変わらず糸が縦横無尽に暴れているが、それは一切、手を介したこちら、蜘蛛の所にまで伝わってこない。
己の見ているものが信じられず硬直する蜘蛛に、円は陽気に笑うと言った。
「よいか、蜘蛛よ。
覚えておけ。力とは、腕や脚の強さのみを指すのではない。
鍛えた筋骨が絶対の強さを決めるのなら、女は男に勝てぬし、人は熊に勝てぬ。ましてや、妖の前になぞ立てぬわ」
唐突に始まった講釈に、蜘蛛は付いて行けていない。
「達人と達人、怪物と怪物の戦闘において、鍛え抜いた肉体なぞあって当然。拮抗から勝利を得る極意は、呼吸により導き、集中により高め、意識により練り上げた内なる気――練気にある。
体を巡る流れを感じ取れ。気脈の発生点を知れ。爪の一枚、髪の一本、吐き出す息すら己が一部と考えよ」
「このような時に、お前は何を……」
「聞け。
これは人に限らず、気を宿し生きるもの全てに通じる。お前とて同じじゃ、蜘蛛。闇雲に鎚を振るうても岩は砕けぬ。折角の宝も、価値を知らん赤子に与えれば涎塗れのがらくたじゃ。
今はまだ、分からなくて良い。だがいつかは分かれ。それを真に理解し、己がものとした時、お前は次なる境地を得る!」
円が腰を落とし、薄く開いた唇から静かに息を吸う。
蜘蛛は目を疑った。円の身体が、深々とその場に沈みこんだかのように、女の細身が、大地そのものと一体と化したかの如き、大山と称するに相応しい磐石さを備えて見えたのだ。
糸を握る手に、もう片手が加わる。
「見せてやろう、化け蜘蛛。釣りとはこうするのじゃ!!」
大きく丸を描き、円の両腕が半回転する。水中から軽々と糸が飛び出す。身を捻る。片脚が上がる。握った糸の束を肩に掛けるように両腕を振り下ろしつつ、円が上半身を一気に前へ沈めた。
糸の束が、ぐんと緊張した半月にたわむ。湖面が轟音と共に水柱を吹き上げ、一本背負いで引っこ抜かれた龍が、高々と弧を描いてふたりの頭上を飛び、その勢いのまま背中から地面に叩き付けられた。
巨大な重量の衝突に、景色が震動する。があっ、と龍が血で濁った息を吐く。
傷の痛み、打ち付けた全身の痛みにもがぎながら、龍が驚きと恐れに支配された、血走った眼を円に向ける。舌の奥まで見えるほど、その口が開いた。喉が膨らむ。規則正しく並んだ牙の先に、赤々と燃える何かが揺らいだ。
喉が膨れる前に、円は動いていた。腰から小瓶を抜き、振り被りながら爪を立てて符を破り、全力で投げる。
口目掛けて投げ付けられた小瓶は、狙い過たず牙に命中した。濁流にも耐えた小瓶が、粉々に割れる。どす黒い煙が、中から立ち昇った。耐え難い悪臭を伴う凝集された瘴気が、霧のように龍の頭部を覆い尽くす。
それは蟲毒の一種だった。口を開き喉を膨らませていた龍は、撒き散らされた黒煙を吸い込んでしまう。
龍は咆哮のような咳をし、焼け爛れた鼻腔と喉から煙を上げて噎せ返った。龍をしてもそれら内側の粘膜は弱く、しかも入り込んだ蟲毒は、洗い流さぬ限り柔らかい部分に取り付き、蝕み続ける。
尾がのたうちまわり、木を薙ぎ倒していく。それは最初のように敵である円と蜘蛛を狙ってというより、苦しみ恐怖する生物が見境無く手足を振り回す、出鱈目な足掻きに過ぎなかった。
「こんな所で火を吐こうとするとは、つくづく間抜けよの。いや、たわけか」
円は鞘を握ったまま、一歩ずつ龍に迫っていく。
油断は無かっただろう。だが、円もまた、龍の特性を熟知していた訳ではない。
龍の残された角が、ぼうと黄色く輝いた。
それに何を感じたのか、舌打ちして円は背後へ飛び退いた。
蜘蛛もまた、慌てて下がる。
雷光が閃いた。
龍の発した雷が一帯を撃ち、草花と樹木を焼き焦がす。
離れていても伝わる衝撃。目も眩む光から庇っていた腕を退ければ、そこに龍の姿は跡形もなかった。
いや――円がひょいと首を動かして見上げた先、既にして円の剣も蜘蛛の糸も届かない遙か上空を、龍は飛んでいた。
育った湖を捨て、何処へ逃げていこうというのか。片角と片腕を失い、身体は腹まで縦に割け、大量の血液を垂れ流し、蟲毒を吸い込んで尚、雷を放ち、飛翔する力が残っていたのは脅威であった。
鱗はあちこちが剥がれ、胴も尾も泥に汚れている。あれほど美しかった姿は、もはや面影すら残っていない。
「逃げたか。しかしあやつ、おとなしく死んでおった方が楽であろうに」
世に、ここまで身勝手で理不尽な言い草はあるまい。
龍にしても、どうして自分がこのような目に遭わねばならないのか、最初から最後まで分からなかっただろう。
どうしてもこうしてもない、円に目を付けられたから、それだけの事だ。少し順序が違っていれば、今の自分の位置にいるのは、あの龍だったかもしれない。蜘蛛は龍を哀れに思い、また羨ましくも思った。
龍は逃げてしまったが、円は然程悔しそうではなかった。温泉にすぐ入れないと知ったときの方が、余程である。
「まあ良いわ、角は手に入ったしのう。これで金が入るぞ」
焦げ臭い岸辺に落ちていた龍の角を、満足気に眺める。
龍としては小さいのだろうが、見事な角であった。幾層にも枝分かれし、横幅なら蜘蛛くらいはある。
「あの龍はどうなる」
「さてな。静かに身を潜めて暮らしていれば、生きられるであろうよ」
助けを待っている子供の事も半殺しにした龍の事も、心底から投げ捨てて円が言う。
その静けさを乱したのは誰だと思わなくもなかったが、それより先に蜘蛛には聞いておきたい事があった。
あの小瓶。龍の火炎を防ぐ為に円が投げ付け、中からぶち撒けられた濃厚な瘴気を、蜘蛛も見ていた。円は確か、こう言っていたのだ。出てこなければ、もう一手を試す、と。
「女……あの瓶の中身。あれを湖に投げ込む気だったのか」
「そうだが?」
「あんな物が混ざれば、湖が丸ごと死んでいたぞ」
「龍は出てくる」
「いれば、だろう。龍がいなかったら、どうするつもりだったのだ」
「その時は、湖が死ぬだけじゃな」
平然と円は答えた。表情を言葉で表すならば、それがどうした、であろう。そんな事よりも、とっとと帰って湯を浴びて、汚れた衣服を着替えたそうであった。




