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八握の檻  作者: 田鰻
一部
7/416

10月:小さな秋の捜しもの - 2

「いやー、見付かりませんねー」

「当たり前だ、この馬鹿娘が!」


人気の無いベンチに腰掛けるのを待ちかねていたかのように、頭上から罵声が浴びせられる。呆れているのも怒っているのも本気だろうが、周囲に響き渡らない程度に声は抑えているのが、この蜘蛛らしかった。

歩きに歩いて、約1時間。我ながらよくやれたものだと、想子は自分の秘める可能性に少々感心した。しかし求める相手には出会えず、ただ足の痛みばかりが残る。


「広い街中から一匹の迷い猫を探し出す、ついでに言えば生死も不明ときた。この困難さが判っておるのかお前は!」

「谷底に落とした麦藁帽子を探す方が、ずっと簡単でしょうね……」

「その通りだ!」

「わわ、通じた。素で返さなくてもー」


たいして大きくない声に耳を塞ぐ真似をしてみせ、そのまま手を首の方へずらす。

髪に結わえた、帽子の下から伸びているリボンの感触を、想子は指に絡めるようにして味わう。これを触っていると落ち着く、というと弄り癖のある幼児染みているが。

母が手ずから遺してくれた品である事と無関係ではないのかもしれないなぁと、想子はたまに思ったりもする。

色は純白。見た目は絹に似ているが、絹ほどの光沢は無く、また遥かに強靭である。手渡された日から今日まで身に付けていない日はないくらいで、半ば想子のトレードマークと化しているこのリボン、ほつれたり黄ばんだりしてくる様子は一向に見られず、母に結んで貰ったあの日と同じ白を保ったままだ。一応、衣類として洗濯しているものの、おそらく意図的に汚そうとしても汚れないのだろう。

実際、僅かでも染みの出来た所すら想子は見た事がなかった。不自然極まる魔法の繊維っぷりも、素材からしてこの世に在って無いようなものなのだからある意味これが自然なのだと言われれば、そうかと納得もする。


「なんとかなりませんか? 九縄」


その素材の持ち主である九縄は、途端に罵倒を止めると考え込み始めた。頼まれたら断れない性分という理由には、間違ってもあらず。想子の言葉を聞いて、仕事と受け取っただけである。

打って変わった九縄の態度に段々申し訳なくなってきた想子は、頃合を見て助け舟らしきものを出す。


「ほら、前に失くし物を探した時みたいに、出来ません?」

「物と生き物を同列に考える奴があるか。相手は獣だぞ。奴らは、ほぼ風や水や木と同じ位置におる。この手の能力に乏しい儂では、そんな連中の気配を広範囲から特定して拾うなど不可能だ。あの時は範囲が限定されていて、且つ探し主がおったから、儂でも物に染み付いた気配と匂いが容易く読めたのだ」

「そういえばそうでした。今回の手掛かりは、この写真だけですしね」


想子の手元には、持ち帰り自由となっていた、迷い猫の特徴及び写真を記載したカードがある。

白地に黒ぶちの、いわゆる牛柄というのだろうか。黄緑色の眼中央を、縦に走る細い瞳孔。ピンク色をした鼻。長い尻尾を、お座りをした手足にぴたりと沿わせて、飼い主であろうカメラの持ち主を見上げている。

やや太り気味に見えたが、どこの家庭の居間で伸びていてもおかしくないような猫だ。ただ唯一、横腹の腰寄りの位置に、コンパスで切り抜いたかのような真円に近い黒丸があるのが非常に目立ち、ポスターやカードの別写真、捜索文でも、そこを特徴として強く推している。

極めて珍しい模様に忠実に、名前はまるちゃん。


「くーちゃん……」

「何か言ったか」

「いえ」


返ってきた絶対零度の声に、想子は一筋の汗などを垂らしつつ視線を泳がせた。

九縄も深追いはしてこない。しろと言われても困るだろうが。


「せめて犬ならばな」

「野良犬は昨今通報の対象ですからね。その点、野良猫はなかなか……。

けれど九縄、保健所への連絡なら、この飼い主さんも失踪直後にしていると思いますよ」

「それもそうか。

……まァ懐いた獣というのは、長年使い込まれた道具のように、多かれ少なかれ人の匂いや気配を纏うもの。探索を続行するならば、それらしき物にぶつかり次第、片端から当たって確かめていくのみよ。飼い犬、飼い猫、飼い鳥……何でも良いが、そやつらも全て含めた中を総当りだ」


聞けば聞くほど、無謀だという気にしかなってこない。

聞くまでもなく無謀だと言われれば、そこまで。

それでも、想子がやれと命じれば九縄はやる。大変な内容を実行させられるのは自分だと判っていようと、それが解決策となるのであれば、九縄は躊躇なく案を示し、命じられれば従う。

如何なる理不尽で馬鹿馬鹿しい命令であっても、命令は命令である。

無論、不平不満は遠慮なしに口にするが、太刀塚の当主である想子に、根本的な所から逆らう術を九縄は持たない。

が、何でもしてくれるとなると、却って無理強いはし辛くなるのが人間の心理。

九縄の提案した捜索方針はひとまず脇に除けて、想子はカードの端を唇の下に当てた。


「……喜んで貰えると思ったんですけどね」

「喜ぶかな」

「ポスターまで作った行方不明の飼い猫が見付かって、悲しみに泣く人はいないでしょう」

「見付かったのが骸なら泣くやもしれぬぞ」

「やめてくださいってば、そういう不吉なもしもを口にするのは」

「冷静に状況を見据えていると言ってもらおう」


全く正しい言い分だった。反論の余地もない。

想子は頭上に手を伸ばし、九縄の脚の一本を指で摘んだ。ざらついた感触。何だ、と九縄が抗議する。

この脚。今なら、想子の指でも思い切り力を込めれば折ってしまえそうに細い。

しかし、その脆さは仮初のもの。秘められた力が弾ければ、細枝の如き脚は逞しい樹幹と化す。一撃一撃が敵の肉を潰し、骨を砕き、岩を叩き割る。護られている立場の想子でさえ、震えが走る真の殺気。

あのような力がありながら、非力な小娘一人の思い付きに逆らえない滑稽さ。

それは可笑しくて、哀れで、堪らなく畏れ多い事だ。

稼業が嫌なのは、単純な嫌悪感の他に、強大過ぎる力を自分の意思ひとつで思うが侭に振るう、その事自体への恐怖と畏怖があるのだろうと、想子は確信している。

自分如きが、あんな力を好き放題に使って許される筈がない。

幼き日に見た光景以来ずっと変わらず、想子の心に巣食い続けている、暗い影。

だから、かもしれない。人間でも充分にできるような事ばかり選別し、九縄を付き合わせてしまうのは。計り知れぬ大きな力を使って、やる事は平凡、間抜け。この傍から見たら嘆かわしい、堕落した振る舞いに、何がしかの安堵と温かみを感じられるのであれば――それは、素晴らしい事なのではと思った。


(つまり結局、現実逃避なんですよね。人は嫌でも、化生の死には、とっくに心も痛まなくなってしまった、それが現実)


蜘蛛の持つ8本の脚。地に立つ8本の柱。

云わば、これは檻なのだ。蜘蛛の腕と脚で囲われた、檻。

その内側にいる想子に傷を付ける事は出来ないが、反面、想子も外側へ出る事が出来ない。

想子は摘んでいた指を放した。

早速、牙で器用に前脚の手入れを始める九縄。元来、蜘蛛である九縄は、身体を触られるのは好きではない。

帽子の中でもぞもぞ動かれ、頭皮に感じるむず痒さを我慢しながら、想子は背凭れに寄りかかって息を吸い込んだ。そのまま止め、目を閉じ、吐き出し、目を開く。呼吸法という程でもない軽い深呼吸だが、つかえは取れた。

潮時だろうな。そう心中で呟く。見付からなかったのは残念だが、誰かの為に動いているという自己満足は得られたし、秋に染まる街の色も存分に眺められた。少なくとも、気晴らしの目的は達成できた訳だ。

ひらひらと飛んできた葉を拾い、茎を持ってくるりと回してみる。ほのかに色付いた葉の黄色は、故郷を想わせるほど濃くはない。地面に散らばった葉が枯れ、腐るようになる頃には、もう世間は冬となっている。

季節と季節が切り替わる時期、特に秋から冬へのそれは、とりわけ風の冷たさが身に染みる気がする。このまま並木道でも眺めに行ってみようか、そんな考えが想子に浮かぶ。ここではまばらに落ちているだけの葉も、銀杏並木の下なら、きっと絨毯のように敷き詰められているだろう。その黄色い敷物の上を、丁度あんな風に尾をぴんと立て、得意気に胸を張って歩く真ん丸模様の猫を想像し、想子は微笑ましくなった。

飼い主にしたら笑い事ではないだろうから、早く家に帰れたらいいね、と付け足すのも忘れずに。


「………………」


二度見という行為を、日常生活でしたのはこれが人生初になるのではと思う。


「いたー!!」

「なにい!?」


反射的に帽子から飛び出しかけた九縄が、慌てて引っ込む。

想子は葉を放り投げて立ち上がったが、悠々と歩いていた猫は、さっさとブロック塀の向こう側へ姿を消している。


「九縄!」

「押さえた」

「はや!」

「いかに猫が探り難かろうと、この距離なら間違わん。ほれ、あそこの。右の細道から回り込め」


想子はひとつ頷いて駆け出した。

気配を追う九縄の指示通りに、右へ曲がり、左へ曲がり、小道をひた走る。


いた。


終着点は、偶然にも袋小路。

とはいえそれは人間にとっての話であり、猫にとっては、この程度の高さの塀など障害にもなるまい。

いきなり姿を現した見知らぬ人間を、猫は丸く開いた瞳孔で出迎えた。

動こうとはしないが、背を弓なりに曲げ、片方の手を前に出し、顔と視線は真っ直ぐ想子に向けられている。

それ以上近付いたら、逃げますよ。ジャンプしますよ。

あからさまな言葉となって全身から発せられている警告に、想子はうっと呻くと、ひとまず静止した。

3メートル弱の距離を挟んで対峙する、一人の人間と一匹の猫。沈黙。気まずい。


「ちちちちち」


想子は右手を差し出し、人差し指を上下に震動させながら、懐柔の声を掛けてみる。猫は耳を伏せ、背を丸めると毛を逆立ててシャアと鳴いた。


「……ええと、怖がっているような気がします」

「はっきり怖がっていると言うのだ、あれは」

「猫は敏感と聞きますから、あなたの気配に怯えているのかもしれません。九縄、少し離れて……」

「どちらかというと、お前の形相と怪しい挙動に怯えているのではないか?」


九縄は投げ遣りに呟き、猫に向かって一本の糸を伸ばす。

一瞬、何かの気配を感じたように猫がびくりとそちらを見たが、素早く飛び退こうとする前に、糸が耳に入り込んでいた。たちまち、くてん、と猫の四肢から力が抜ける。

想子は倒れた猫の側に屈み、状態を検めた。束の間の野良暮らしで、やや毛並みが薄汚れているが、ざっと見た感じでは、怪我らしい怪我は無いようだ。ほっと、一息つく。

猫の眼は見開かれ、口は半開きになっている。呼吸の証拠を告げる胸の上下が無ければ、死んでいるかと疑うようだ。今回は意識を奪っただけだが、このまま操作する事も可能である。猫どころか、人も。


「ちょっと、可哀想な事をしちゃいましたね」

「ああも興奮している猫を捕まえるのは、下手をすれば飼い主でも無理だ。やむをえんだろうよ」

「やけに猫の生態に詳しいですね。ひょっとして好きだとか?」

「さて」


一笑に付されるかと思いきや、意外にも九縄は思うところがありそうな素振りを見せる。え、まさか、本当に、と動揺しかけた想子に対し、


「さほど美味いとは思わなかったな」


想子は脱力した猫を、しっかりと胸に抱いて隠した。






散々歩き回った後に、尚も徒歩で帰ろうとするのを、自虐行為と呼ぶ人もいる。


「さても、たいした金一封よ」


だが、たっぷり動いた後は甘い物がより美味に感じられる事を思えば、無駄がないとも言える。九縄の皮肉めいた言い回しを聞き流しながら、想子は感慨深げに言った。


「あの和菓子屋さんだったとは、驚きましたね」


数奇なる運命、巡り合わせの妙。まったく、神様の悪戯とやらには常々意表を突かれる。連絡先として記されていたのは電話番号だけだったから、手前で通り過ぎた和菓子屋が飼い主だとは判らなかったのだ。

しかしこれは、探す側としては少々迂闊である。相手に印象付けるキーワードは、多ければ多いほど良い。その方が、何かの拍子に意識の端に昇る事も、自然、多くなるのだから。

ともあれ。

事件は解決し、猫は無事に帰還した。想子は何度も何度も頭を下げられ、茶をご馳走になり、更には謝礼として受け取った二箱の菓子折りを手にぶら下げて、昼過ぎとなった街を帰路についている。言われてみれば、御礼がどうこうとも書かれていた覚えがある。想子は猫ばかりに気を取られていたが、九縄はきっちりとチェック済みだったようだ。しっかりしているというか、何というか。


「腹の足しにはなっても、お前の刹那的な生き方に貢献してくれそうにはないな」

「いいんです、お礼が目的ではなかったのですから」


渡された袋は、それなりの重みがある。

この菓子折り二つでも結構な金額になりそうだが、もとより金品での謝礼は想子の頭になかったので、オマケのようなものである。勿論、とても嬉しいオマケには違いなかった。

次に自分が口にしようとしている言葉に、幾分かの照れと後ろめたさを抱く。

未熟な願望だと、鼻で笑われても仕方ない。自力では到底達成できず、他者の力に頼るしかない。だから負けないよう、想子は努めて明朗な声を出した。


「それに、喜んでくれましたよ。誰も悲しむ者を出さずに」


謗られはしなかった。

ただ、静かに。


「そうか。それが、お前が此度、最も求めた報酬だったな」

「はい、そうです。わたしは、無条件に喜んで欲しかった。喜んで欲しいのです、たぶん」

「ならば役目は果たした。儂から言う事は無い」


九縄はそれきり言葉を切る。

飽きたのか、興味が失せたのか、曰く「苦手」な作業に神経を使って疲れたのか。

九縄は。

想子は舌先で唇を湿らせる。

主の命に従い、主の望む利益を得た、要は使役される者としての職務を全うしたと、ただその事を話したに過ぎない。そこに、余計な感情を期待するのは間違いだ。向こうも、こちらが期待する事を期待してはいないだろう。

だとしても。だとしても、率直に告げたいと思い告げる事に、罪は科せられない筈だ。


「ありがとう」


小さく零す。返事はない。

気が付けば、随分遠くまで来ているようだった。


「九縄、このまま買い物をして帰りますね。冷蔵庫も心許なくなってきてます」

「その上を行く心許なさの金は」

「……なんとかなりますよ」


溜めを含んだ根拠ゼロの自信に、あえて九縄は言及を避けた。

そろそろ一言追求するのすら面倒になってきているというのは、誰にでも予想がつく。


「そうですね、今日は頑張ってくれた九縄にもご褒美を……」

「儂に褒美は要らぬよ。仮に欲しい物を告げたところで、お前に買えるとは思えんが」

「……どうしてあなたの求める本は、いちいち高いのですか。

あ、九縄。お酒なんてどうでしょう」

「酒はやらん」

「あれ、そうでしたっけ?」

「ああ」


こめかみに指先を添え、脳の引き出しを開けていってみる。

そう言われて改めて考えてみると、確かに、日本酒にせよ洋酒にせよ、九縄がアルコール類を摂取している姿は、これまで一度も見た記憶がなかった。物心つく前の数年間と、自分が忘れているだけという可能性を除外して。

こんな事で九縄がわざわざ嘘をつく理由は無いのだが、微妙に納得できなくもあった為、想子は重ねて問うてみた。


「一滴も?」

「一滴も」

「へえ……意外ですね。いかにも飲みそうな感じなのに」


想子は腕組みをした。菓子折りの入った袋がガサガサと鳴る。

妖怪に酒は付き物。偏見といえば偏見だが、客観的といえば客観的な認識である。禍々しい巨大な蜘蛛が、山奥の巣穴で上物の酒を啜っている姿など、まさしく物の怪伝承の一幕そのもの。何とも絵になる構図ではないか。

そんな思考内容を表情に出した想子に、淡々と九縄は訳を話した。


「想子、儂は化け物だ」

「化け物です」

「世の神話だの伝説だのを紐解いてみろ、酒を飲んだ化け物は大抵どうなっている」

「あー……はいはい。いつも、ろくな目に遭ってませんよね。特に大物は」

「そういう事だ。伝説とは必ずしも一個の出来事からは生まれん。その多くは、複数の物事が重なり合った結果なのだ。だったら、この類の――お前達に言わせれば”お約束”か。それが下す忠告には、歯向かわぬ方が良いのさ」


妖怪は酒を飲む。酒を飲んで調子付いて自滅する。

成る程、そういった先入観が誕生するには、それなりの裏付けがあるという事らしい。想子にしても、その「山奥の巣穴で酒を啜る大蜘蛛」の後に続く絵なり物語なりを書けと言われれば、迷わずに「それを退治しに来る人間」を選ぶに違いないのだ。

他には、上機嫌で高いびきをかいて眠る。

そして、退治される。

他には、酔って村々を荒らし回る。

そして、退治される。

つまるところ、九縄の警戒は正しいのだろう。

ふと、初代様に負けた時がそうだったのかを、想子は尋ねてみたくなったが、自分の為に骨を折ってくれた相手のトラウマをダイレクトに抉るかもしれないと思い、やめる。


「君子危うきに近寄らず、ならば危うきに近寄らないのは君子であるか……この二つは相反せず、故に是なり、だな」


高層マンションの向こうに隠れた太陽を臨み、九縄は吼えるように笑った。






男が振り向き、邪悪に歪んだ笑みを浮かべる。


投げ捨てられた二人の乗客を救助し、再び戦いの場に戻った彼は、その笑みの意味を知り愕然とした。


運転装置がやられたのだ。


制御を失い、一秒ごとに加速していく列車。


このままでは、どうなるか。


彼は迷わなかった。


火花で焦げたマスクを剥ぎ取り、一切の視界を遮る物を無くす。


その時、彼の頭から、素顔を晒す事への危惧は跡形もなく消えていた。

ただ焦げたマスクは、この危機的状況を回避するための障害になるという事実だけを考えていた。


この先には、線路がない。


決断は早かった。


彼は列車の先頭に張り付き、絶望する乗客を一喝するように指示を下すと、広げた両腕から、ビルの壁面へと次々に糸を飛ばしていく。


が、糸はむなしく千切れた。

いかに彼であろうと、全速で暴走する列車を、たかが糸だけで支え切れる筈がないのだ。


誰もが、そう思った。


――否、一人を除いて。


彼は諦めない。


彼は放ち続ける、幾重幾本もの糸を。


握り締めた拳を繋ぐのは、乗客全ての命と、己が信念。


それこそが、ヒーローの本能なのだ。


凄まじい重圧に腕がきしみ、窓ガラスが弾け、スーツが裂けていく。


だが、放さぬ。


たとえ、この身体が二度と使い物にならなくとも。


彼は咆哮した。


魂を吐き出すかの如く。


決して――放す訳にはいかないのだ。


と。


遂に彼の意思を認めたかのように、列車は徐々に速度を落とし――停止線を突き破り、車両を虚空に乗り出し、


そして―――止まった。


彼は、守り抜いたのだ。


人々を。


そして、一度は揺らぎかけた自分の心を。


乗客の無事を確認した彼は、気を失い、ゆっくりと倒れていく。


その身体を、次々に差し伸べられる乗客たちの手が、腕が、優しく支えた――




中型サイズの液晶テレビ上では、赤と青の派手なコスチュームを着た怪人による大活劇が展開されている。それを、見入って、という程ではないが、そこそこ真剣に鑑賞している想子と、鑑賞というより傍観している風情の九縄。


「……九縄」

「なんだ」


数度噛んだ豆大福を緑茶で流し込むと、若干の期待に目を輝かせながら、想子は言った。


「あれ、できます?」

「無理だ」


夜は、穏やかに過ぎていった。


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