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八握の檻  作者: 田鰻
一部
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8月:太刀塚想子 - 4

わたしは、太刀塚の娘として生まれた。


昔のわたしは、自分でもかわいくない子供だったろうな、と思う。


父に去られ、母を早くに失くしたわたしは、祖母と、家に仕える数名の人たちに育てられた。


毎日が、楽しくなかった。


遊ぶ事も、学校に行く事も許されていたが、誰もわたしには近付いてこない。

親から話を聞かされているのだろう。教師からも腫れ物扱いだった。わたしと目が合うと、怯えたように愛想笑いをする。

家に帰れば帰ったで、祖母から教えを受けた。話の中身はいつも家の歴史と、蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛。


先代である母が生きていれば、まだ違っていたのかもしれない。

……いや、その場合はまた別の道が待っていただけだろう。


わたしは、次第に荒れ始めた。


公然と祖母に、家に反抗心を剥き出し、意識して子供の輪から外れ、10に満たない歳で大人を見下すようになった。


わたしは特別なんだ。


わたしは偉いんだ。


皆と同じに扱ってもらえない寂しさを、優越感で必死に誤魔化して。


実際、わたしに逆らえる者は誰もいなかった。皆はわたしを恐れていたのではなく、わたしの背後にいる九縄を恐れていたのだけど、どちらでもわたしにとっては同じだった。


……そして、あの日。


その夜、いつものように祖母に歯向かったわたしは、とうとう家を飛び出してしまった。真っ暗になっていた外を、ろくに足元も見ず我武者羅に走る。後ろから呼ぶ声がした気もするが、よく覚えていない。


気付けば、わたしは近くの森に迷い込んでいた。

大きな木の幹に寄り掛かって、荒い呼吸を整える。

もう、嫌だ。あんな家に帰るもんか。

小学生が家を出てどうやって生きていくのか、そんな現実的な事を考えている訳もない。幼い反抗心を満たした事に、わたしはとても満足していた。


「平気だもん。わたしには九縄がいるもん」


そう独り言を呟いて、肩に手をやった。

するりと、蟲の脚が移ってくる感触がある。


「ね、九縄はわたしの味方だよね」


小さな掌に乗り切らず、手首から腕にまで脚を伸ばしている九縄に、わたしは語りかけた。

よく喋る蜘蛛は、キチキチと牙を擦っただけで答えない。少し傷付いて、蹲るように前日の雨で湿った草に腰をおろした。


「みんな嫌い。大嫌い」


そう言って、膝を抱える。

どうして、こんな事になったんだろう。

本来、次の太刀塚が九縄を引き継ぐのは、最低でも17歳になってからなのだが、身体の弱かった母は、わたしが5歳の時にこの世を去った。

九縄が遡って受け継がれる事は無い。わたしは知識も覚悟もないまま当代となり、九縄の主となった。

わたしと対等に接してくれる相手は、口やかましい祖母を除けば九縄だけだった。

こいつのせいでと思うと憎くもあったが、九縄がたまに話してくれる昔の出来事や母の思い出などは楽しく、孤独の中でいつしかわたしは、九縄を友達だと思うようになっていた。

祖母でさえ、わたしには勝てない。たとえ以前九縄を従えていようと、今の主はわたしなのだ。九縄が従うのは現当主のみ。わたしの一言で、なんの躊躇もなく九縄はかつての主に襲いかかるだろう。

ぎゅっと、わたしは強く膝を抱いた。


――と。


ほぅほぅと、どこかで梟が鳴いた。

頭に結んだリボンが、急に吹き抜けていった風に揺れる。


「……あれ?」


俯いていた顔を上げる。

やかましいくらい騒いでいた虫の音が、一斉に静まり返っている事にわたしは気付いた。

生温い風に乗って漂ってくる、肉の腐ったような悪臭――。

わたしの顔が、風上を向いた。


そこから、何が起こったのか。


夜の暗さに慣れてきた目で一部始終を目撃していながら、わたしは今でも正確に思い出す事ができない。


覚えているのは、深い森の闇から踊りかかってきた獣の生臭い息と。


九縄の爪先が、掌の皮膚を軽く蹴る感触。


あの獣もまた、野山に生きる普通の獣ではなかったのだろうと思う。

暗き場所には暗き者が生まれる。虎のように巨大な鼬など、この国に生息している訳がない。

しかし彼――雄か雌かは不明だが――は、愚かにも警戒を怠った。

目の前の獲物に気を取られ、本能が告げる折角の警鐘を無視した。あるいは、妖へのなりかけであった彼には、まだそういった危機を察知する能力が芽生えていなかったのかもしれない。


麻痺していたわたしが、我に返った時。


地獄がそこにあった。


八つの眼が闇よりも黒く輝き。


地を踏みしめる太い脚はいずれも燃え盛る業火に包まれ、うち一本が獣の頭を西瓜のように叩き潰している。


顎には、首から引き千切られた胴体が咥えられていた。

腹から垂れ下がる長い物は、内臓だろうか。


夜に浮かび上がる巨躯。


わたしは、森の中に突然山でも出来たのかと思った。

それほど、大きかったのだ。畑仕事に向かう大人が乗っていた白い軽トラック。丁度、あれを思わせる大きさ。

脚を含めれば、横幅はその2倍以上あるようだったが。

けれどそんな筈はなく、ではここで怪物を残酷に食い殺しているのは、間違いなくさっきまでわたしの手に乗っていて、わたしと仲良くしてくれる九縄で。つまりは九縄が怪物で。


がちりと、丸太のような顎が噛み締められた。

腰の辺りから、獣の胴が両断される。そうされながらもまだ生きているのか、前足が弱々しくもがき、宙を掻いた。


ようやくわたしは甲高い咆哮をあげ、吐いた。






蒼白になって帰宅したわたしに何を見たのか、祖母は一言も叱らなかった。


黙って、翌日からは、これまでと同じように接した。


わたしも、もう逆らう事はなかった。

感情を封じ込めたのではない。逆らおうという気自体が、無くなっていたのだ。


見てしまったから。


知ってしまったから。


無防備に侍らせていた相手が、一体どういった存在であるのかを。


あれは、人の傍にいていいものではない。


ただの人などが、無闇に扱っていいものではない。


そう、子供心に直感で理解した。


同時に、諦めてしまったのだ。

それは絶望も悲壮感もない、老人がいずれ来る死を受け入れるのに近い、自然で穏やかな悟りだった。

千年の約束。

服従の終わる時が、すぐそこに迫っている。

あれだけうんざり聞き流していた言葉が、乾いた地面に水滴を落としたように、すっと心に染みていった。

踏み潰された頭から飛び出した虚ろな目玉が、闇の中でわたしを睨みつけている。次はお前だぞ、次はお前の番だぞ、と。

あの獣は、いずれ来るわたし自身の姿なのだ。


小学校、中学校と成長していくわたしに、祖母は相変わらず厳しかったけれど、たまに頭を撫でてくれるようになった。いや、わたしが頑なに見ようとしていなかっただけで、実際にはずっとそうしていてくれたのだろう。

もしかして、祖母も遠い昔に、わたしと同じものを見たのかもしれない。

そう考えると、少し可笑しくて、哀しかった。


地元の高校を無事卒業したわたしは、故郷から遠く離れた大学に通う事になった。

なった――というか、自分で決めたのだ。太刀塚の当主が家を離れるなど前代未聞であり、周囲の者は皆反対したものの、結局は折れた。あの後わたしは知ったのだが、既に数代前から今日という日の事は色々と考えられていたらしい。

九縄を従わせ続ける為の、新しい方法についても。

それらはどれも上手くいっていないようで、失敗したと聞く度に、そうだろうなとわたしは納得していた。あの日、あの夜に見た光景。あんなものを制する事が可能だとは思えなかったし、それでいいとさえ思った。

逆に、その出来ない筈の事をやってしまった初代様に、ちょっとした羨望と嫉妬を感じる。

家を出る日、祖母は久しくしなかった頭を撫でる仕草をしてくれた。

元気でね。そう呟いた祖母の顔を真っ直ぐに見て、はい、と私は言った。


千年。

いつ、その瞬間が訪れるのかを、わたしは知らない。

わたしだけではなくて、実は誰も知らない。千年で終わるという事はしっかりと伝えられてきたのだが、こともあろうに肝心の、いつ九縄を従えたか、という事がはっきり年号として記録されていないのだ。適当にも程がある。人間の寿命の範囲内だから、最大でも数十年におさまる年月とはいえ、わたしにとっては大変な違いだというのに。

ついでに言えば、契約だか盟約だかが千年丁度で終了なのか、千年後の代までは有効なのか、結構重要な箇所さえ曖昧なのだ。代だとしたら、とりあえずわたしは安心してよいという事になる。後が大変だろうけど。

九縄は何も教えてくれない。わたしが聞こうとしないのもあるだろうし、誰に対しても口を噤んできたのだろう。そうやって、ふとした拍子に死の影に怯える最後の主の姿に、千年間分の溜飲を下げているのかもしれない。

延長サービスとか、お願いできないかしら。たまに浮かぶそんな馬鹿げた考えを、わたしは自ら一笑に付する。

あの眼を見て尚そんな考え方ができるのは、救い難い呑気者だ。

ありとあらゆる感情を排除した、純粋な捕食者たる虫の眼を。

本当に、いつなのか。明日か、明後日か、一年後か、十年後か、二十年後か。明日でもおかしくはないし、わたしが皺くちゃになってからだとしてもおかしくない。

まったく、いい加減なご先祖様だ。子孫の神経をすり減らしてくれて。

あの世で会えたら、せいぜい文句のひとつふたつもぶつけてやろう。

次第にぼんやりしていく意識の最後に、わたしは苦笑した。


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