1月:探偵少女 - 5
目覚まし時計が午前2時を打つ。草木も眠る丑三つ時などと言うが、時刻も日にちも関係なく、常時物の怪が出現しているこの部屋においては、さほど意味のない概念だった。
部屋中に張り巡らされていた糸は取り除かれ、今や中央で縛り上げられている少女と猫の他は、散らかり方も含めて、何ひとつ日常と変わらない風景に戻っていた。捕らわれの二名からしてみれば、部屋の汚さに注意がいくどころの心境ではないだろうから、それは想子も助かる。
少女は両手を後ろ手に縛られ、更に腕と胴体を固定。ついでに足首も。向かい合って床に座りながら、この頃、部屋の真ん中で正座する人が多いなぁと想子は思った。自分も含めて。
猫の方は更に念入りに、ほぼグルグル巻きに近い状態にされて、少女の隣に転がされていた。少女は耳鳴りがするらしく、頻りに頭を振っては、鈍痛を追い払おうとしている。
「……また猫か」
何やら、ろくでもない記憶を掘り返されたかのように、九縄がうんざりした様子で呟いた。
とはいえ、いつもの飄々とした余裕を感じるのはそこだけで、少女と猫に向ける眼光にも、全身に漂う気配にも、極度の怒りと緊張が感じられる。まずいなと思いながら、とりあえず想子は落ち着きを保った声で尋ねた。
「お名前は?」
「ふんっ、悪党に名乗る名など……」
「このまま縊り殺しても構わんぞ」
「あだだだだだだ痛い痛い痛いごめんなさいごめんなさい!!」
やりとりは漫才めいているが、ぎりぎりと軋む手足は冗談では済まない。九縄も冗談で済ませる気はないだろう。殺さず捕らえろ、その命令が効いているから、少女達の命は首の皮一枚で繋がっているのだ。
猫の方は、少女と違い事態の深刻さを理解しているらしく、緊迫した獣の表情で九縄に視線を置いている。想子と九縄が注視しているのも、騒がしい少女ではなく、専らこちらの猫であった。
無論、人の言葉を喋っていた時点で、普通の猫である訳がない。
「明月明日美……」
「明月屋ジャック」
少女が呻くように、猫が良く通る声で順に答える。
「小豆屋?」
想子が首を傾げた。
「小豆ちがう。明るい月って書いて明月、あづきや。老舗の乾物屋よ。あ、でも小豆は取り扱い商品に入ってるわ」
「はぁ、そうなんですか、何だかややこしいですね。……で、そちらのジャックさんは」
「うちの猫」
「最近のペットショップは化け猫も取り扱ってるんですか」
「オレは、その明月屋憑きの猫又だよ。こっちには嬢に頼まれて一緒に出てきてんのさ。なァ、ところでこれ解いちゃくんねーかな。苦しいんだよ。大丈夫、暴れるつもりなんざ無……ぎええっ!?」
眼前の床で鳴った炸裂音に、化け猫ジャックが悲鳴をあげた。
九縄が糸を鞭のようにしならせ、床を打ち付けたのだ。
想子は驚く。九縄が、こういった威嚇に出る事はまずない。大概は威嚇するより先に相手が死んでいるからであり、それを禁じられているが故の行為なのだろうが、洗練された振る舞いとは言い難い乱暴な糸使いである。床に傷が付くのが心配だったものの、とても床の事など口に出せる雰囲気ではなかった。
もはや、九縄は殺意と化しつつある憤怒を隠そうともしていない。
「図に乗るな、小僧」
激しい苛立ちからなのか、何本かの脚で床を踏み鳴らしながら、九縄が吐き捨てるように言った。
念の為、想子はそっと手をかざし、制する意思を伝えておく。
ジャックは泣きそうになっていた。が、こちらはこちらで、黙っているという事が出来ないらしい。
「こ、小僧って言い方ぁねーだろっ!!
オレはお江戸の昔に、ペリー提督の黒船に乗ってアメリカ合衆国からやって来た、バリバリのご長寿猫だい! これでも150ウン年は生きてんだぜ!」
「あら、外人さんだったのですか。どうりで目が青いと思いました」
「……いや、それは関係ないんじゃねぇかな」
やや毒気を抜かれたジャックが、クリアブルーの眼をぱちぱち瞬かせて言った。150数年という数を流してそこかよと言いたい気分であっただろうが、想子にせよ九縄にせよ驚くような数字ではない。
だがジャックは沈黙を年月に圧倒されたと受け取ったらしく、簀巻きにされたまま、やや胸を張るようにしてみせる。
キキ、と九縄が高く鳴いた。喋ったのでも笑ったのでもない、鳴いたのだ。ジャックが硬直する。
想子は溜息をつき、今度は掌で直接九縄の身体を上から押さえた。
「海外の猫でも、日本で猫又になると尻尾がふたつになるんですね……」
「……あ? ああ……オレも化けたのはこっちでだから、あっちの化け猫の尻尾が一本なのかは知らないけどな」
毛玉で板のようだと思っていた太い尾は、実は二本の尾がぐるぐると絡み合ったものだったのだ。尾は身体以上に長い毛に覆われているから、巨大な毛玉に見えたのだろう。想子はツイストドーナツを思い出す。
その尾も今は解かれ、一本ずつ伸ばされて糸で固定されている。昆虫標本のようだった。
「一本切り落として、ただの猫に戻るのだな。貴様はその方が長生きできよう」
「じょっ、冗談じゃねーよ! それに猫又の尾を切ったからって、ただの猫に戻ったりしねー、弱るだけだって!」
「ならば弱れ、そして死ね」
九縄の声は冷え切っていた。
「おそらく貴様らは、こやつに対する何らかの害意を抱いて部屋に侵入した。
にも拘らず、貴様らの首は胴体から離れる事もなく生きている。儂にはそれが耐え難い程に不愉快だ。
こやつに生存を赦されている貴様らが不愉快だ。
貴様らが口をきく事、息をする事、目を動かす事、その全てが不愉快だ。
貴様らが飛びかかれる位置、爪の届く位置、牙の届く位置、唾を吐きかけられる位置に、こやつがいるのが不愉快だ。
たとえ何も出来なくとも、何か出来る距離に貴様らがいるのが不愉快だ。
なにかされるかもしれない、その可能性の存在が不愉快だ。
そうと判っていながら、なお貴様らを殺してやれない己が不愉快だ。
そして何よりも昼間、あれだけ接近されるまで貴様らに気付かなかった己が不愉快で堪らぬわ!!
こやつは貴様らを殺すなと言う。故に殺さぬ。儂に貴様らを殺す事は出来ぬ。だがこうして戯言を聞かされている間、儂が心中で何べん貴様らを切り刻み、その破片を食い千切り踏み躙ったか聞かせてくれようか!!」
しぃんと、部屋が静まりかえる。
激昂が過ぎ去った後の恐ろしい静寂が、刃物となってその場にいる者の肌を切る。
能天気に見えた少女、明日美の顔が蒼褪めている。より詳細に恐怖の正体を――九縄の殺気を感じ取れるであろうジャックの心地たるや、想像するのも気の毒なほどであった。
舌打ちでもしそうに、九縄が頭部を揺らす。
あまりの怒りで自制が外れかかり、怒鳴りながら犬ほどに膨れ上がっていた身体が、普段の大きさに戻った。
想子がぽりぽりと頭を掻く。この部屋で唯一、緊張から遠いのが想子だが、かといって事態を楽観視している訳ではない。
「……こんな状態では、話せといっても何も話せませんよね。九縄も、そう怖がらせないで。
お茶を淹れてきますから、続きは気持ちを落ち着けてからにしましょう」
立ち上がり、広くはない台所へ向かう。
ポットのお湯は空だったので、ヤカンに水を入れて強火にかける。
茶筒を取り出していると、隣室から九縄がやって来た。
「見張っていなくていいんですか?」
「動けば首が落ちる」
「九縄……」
「冗談だ」
九縄が力無く笑った。
「儂はお前を良く罵る、ずぼらだの腑抜けだのと散々にだ。しかしどうやら、こちらへ来て最も腑抜けていたのは儂だったらしい。これではお前を笑えんな」
「無事だったんだから、もういいんですよ。あの子達も、そんなに悪い子じゃなさそうです」
「だが、無事ではなかったかもしれぬ」
九縄が流し台を這い登る。ヤカンが湯気を立て始めた。
「相手は化け猫だ、そこらの三下とは違う。
余所に気を取られ、その気配を見逃したのは儂の失態よ。
それにしては妙に弱々しいのが気になるが……言い訳として塵ほどの価値も無いな、そんなものは」
「しょげてますねえ、らしくないですよ。九縄はもっと自信満々でいてくださいな」
湯を急須に注ぐ。
緑の葉が広がり、芳しい香りが昇り始めた。
「それより、あなたは何に気を取られていたんです?
あの場でも何かに気付いていた様子でしたよね。こんな事になって、聞きそびれてしまってましたけど」
「それは……いや、向こうで話すとしよう。ついでだ、その方が手間が省ける」
「という事は、話せるくらいには落ち着いたと」
「まあな、だが油断はするなよ」
「あなたに対して?」
想子が小さく吹き出した。
湯飲みと、足りない分はコップに注がれていく茶に、九縄が口を挟む。
「儂にも一杯寄越せ」
「おや珍しい。いつも水しか飲まないのに」
「たまにはいいさ。煮えて曇った頭も目が覚めるというものよ」
九縄の声は自嘲を孕んでいた。
想子は九縄の分を小皿に注ぎ、計4つの容器を盆に載せて部屋に戻った。
その肩に、ひょいと九縄が飛び移る。




